バイブル・エッセイ(778)心の目を開く


心の目を開く
「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:33-37)
 イエスの降誕を待ち望む待降節の始めに、「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである」という言葉が読まれました。今日の「目を覚ましていなさい」は、イエスがいつわたしたちのところにやって来るか分からない。いつ、どんな姿でイエスがやって来てもすぐに見つけてお迎えできるように、いつでも心の目をしっかり開いていなさいという意味で受け止めるべきでしょう。
 自分を守ろうとするとき、わたしたちの目は閉ざされます。自分の財産や名誉、快適な生活などを守ろうとするとき、わたしたちの心は隣人に対して固く閉ざされてしまうのです。心を閉ざした人の目には、貧しい人、助けを求めてやって来る人たちは、自分の快適な生活を脅かす邪魔者としてしか映りません。助けを求められても迷惑だとしか感じることができないし、相手が去らなければ、自分の生活が壊されるのではないかと恐れを感じて相手を憎むようにさえなってゆきます。欲望は恐れを生み、恐れは憎しみを育て、わたしたちの心はしだいに闇で閉ざされてゆくのです。ヨセフとマリアの宿泊を断った宿屋の主人の心も、もしかするとそのような状態だったかもしれません。暖かな部屋でおいしい物を食べてくつろいでいるときに、突然やって来た貧しい夫婦を見たとき、彼らはきっと迷惑と感じたのでしょう。自分たちの快適な生活を乱されることへの恐れから、声を荒げて夫婦を追い払ったのです。貧しい人たち、助けを求める人たちがやって来たとき、わたしたちもそのような態度を取っていないでしょうか。
 逆に、相手を助けたいと願うとき、わたしたちの目は開かれます。相手の苦しみを感じ取って気の毒に思い、相手のために何かせずにいられなくなるとき、わたしたちの目は開かれるのです。わたしたちの心の中で愛が目覚めるとき、わたしたちの目は開かれると言ってもいいでしょう。相手の苦しみに目を開くとき、わたしたちは相手の中におられるイエスに気づきます。助けを求めて叫んでいるのは、愛を求めて叫んでいるのは、実はその人たちの中にいるイエスご自身なのです。エスは、助けを求める貧しい人たちの中におられ、わたしたちの愛を求めておられるのです。その声に気づいてわたしたちの愛を差し出すとき、わたしたちの心は神の愛に満たされ、わたしたちの心に救いが訪れます。
 欲望や恐怖、憎しみによって曇らされた目では、イエスを見つけることができません。愛に輝く目だけが、相手の中におられるイエスを見つけ出し、イエスをお迎えすることができるのです。愛によって開かれた心の目でイエスを見つけ出し、心にイエスをお迎えする季節。それがクリスマスだと言ってもいいかもしれません。いつも目をさましていることができるよう、心を合わせて祈りましょう。