バイブル・エッセイ(897)喜びと力の泉

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喜びと力の泉

(そのとき、イエスは、)ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」その町の多くのサマリア人はイエスを信じた。そこで、このサマリア人たちはイエスのもとにやって来て、自分たちのところにとどまるようにと頼んだ。イエスは、二日間そこに滞在された。そして、更に多くの人々が、イエスの言葉を聞いて信じた。彼らは女に言った。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです。」(ヨハネ4:5-15、19b-26、39a、40-42)

「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、イエスはサマリアの女性に言いました。イエスと出会ってその言葉を信じるなら、わたしたちの心の中に、喜びと力がこんこんと湧き上がる命の泉が生まれる。その泉は、どんなことがあっても決して枯れることがないということでしょう。イエスと出会ってその言葉を信じるとき、わたしたちの心に、永遠に枯れることのない愛の泉、命の泉が湧き上がるのです。

 そんな泉を持っているに違いないと思える人に、ときどき出会うことがあります。例えば、先日カルカッタで久しぶり出会ったシスター・プレマです。マザー・テレサの三代目の後継者として「神の愛の宣教者会」の総長を務めている方ですが、彼女と会うといつも元気づけられます。なぜなら、彼女はいつも、とても明るい笑顔を浮かべているからです。「なぜ、こんな困難な状況のときにほほ笑むことができるのだろう」と、不思議に思うことさえあるほどです。彼女と出会うと、この人の中にはきっと、どんなときでも枯れることのない喜びと力の泉があるに違いない。そんな風に感じます。彼女から湧き出す喜びと力の水は、出会うすべての人の心に流れ込み、心を潤して生きる力を蘇らせてゆきます。皆さんの周りにも、きっとそんな人がいるでしょう。

 そのような人たちの中にある喜びと力の源泉、それは、どんなことがあっても決して揺るがない、神様の愛への確信だと思います。「神様はわたしのことを愛してくださっている。神様を信じてすべてを委ねていれば、何も心配することはない」という深い確信こそが、その人たちの心に深く掘られた井戸なのです。神様への信頼が深ければ深いほど、心の井戸は深くなってゆきます。そして、ある深さまで達したとき、その井戸は、もはや枯れることがない、永遠の命に至る水を湧き上がらせる井戸になるのです。

 では、どうしたら心の井戸を深く掘ることができるのでしょう。サマリアの女性のことを考えれば、そのヒントが見つかるはずです。サマリアの女性は、イエスが自分のすべてを知っていることに気づいたとき、イエスを信じました。サマリアの女性は、「この方は、すべてを知った上で、わたしを受け入れてくださった。こんなに弱くて罪深いわたしを、この方はゆるしてくださった」と感じたに違いありません。あるがままの自分をゆるされ、受け入れられたこの体験は、彼女の心に掘られた神様への深い信頼の井戸、信仰の井戸となりました。イエスの愛が、彼女の心に永遠の命に至る泉を湧き上がらせたのです。

 イエスと出会った町の人々は、口々に「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない」と女性に向かって言いました。イエスとの出会いを通して、この人たちすべての心に命の泉が湧き上がったのです。イエスは、弱くて罪深いわたしたちを、あるがままに受け入れてくださる方です。この四旬節に、わたしたちもそれぞれイエスとの出会いを深め、「神様は、これほどまでにわたしを愛してくださっている」という信頼の井戸を深く掘ることができるよう祈りましょう。

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