バイブル・エッセイ(390)『心の井戸を深く掘る』


『心の井戸を深く掘る』
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(ヨハネ4:7-15)
 「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」とイエスは言います。遠くまで探しに行く必要はない。命の水が湧き出す泉は、イエスを信じるわたしたち自身の中にあるというのです。ですが、その泉はどこにあるのでしょう。
 泉なんてどこにあるのだろうと、目をつぶって自分の心の中を見渡すと、そこにはごつごつした岩がたくさん積もっています。執着や怒り、恐れなどによって凝り固まった、心の岩です。泉なんてどこにあるのかと思うかもしれません。ですが、泉はあります。命の水が湧き出す泉は、その岩の下に隠れているのです。泉を見つけたいなら、一つひとつ岩を取り去り、心を深く掘り下げて行くことだと思います。心を一番奥深くまで掘り下げたとき、わたしたちはそこに、神様の愛がこんこんとわき出す命の泉を見つけるでしょう。
 では、どうしたら岩を取り除くことができるのでしょう。岩を打ち砕くことができる唯一の道具、それは信仰だと思います。たとえば、何かへの執着。「これがなければ絶対にダメだ」という執着の岩は、「信じてあなたに委ねます。わたしに本当に必要なものだけをお与えください」という信仰で打ち砕くことができます。「あの人だけはゆるせない」という憎しみの岩は、「わたしも実は不完全な者です。裁きをあなたに委ねます」という信仰で打ち砕くことができます。「ああなったらどうしよう」というような将来への不安や恐れの岩は「一番いい道を準備して下さるあなたに、将来を委ねます」という信仰によって打ち砕くことができます。こうしてすべてを神様に委ね、すべての岩を取り除いたとき、わたしたちは心の一番奥深く、命の水辺に到達するのです。すべてを神様に委ねるとき、わたしたちの心の奥深くから喜びや力、安らぎが泉のようにこんこんとわき出すのです。
 湧き出した命の水は、わたしたちの心を満たすだけでは終わりません。どんな試練にあってもへこたれることなく、笑顔で乗り越えていく人が一人でもいると、周りにいる人たちがみな力づけられ、元気になるものです。喜びや力、安らぎは、わたしたちの心からあふれ出して周り中の人たちの心に流れ込んでゆくのです。一人が心の井戸を深く掘り下げるなら、まるで岩場のように見えた厳しい状況も、たちまちのうちに豊かな水で潤され、緑のオアシスに変わっていきます。自分の心の井戸を掘り下げるという、一見とても個人的な作業は、決して自分だけのためではないのです。その信仰の営みは、わたしたちの周りにいる人たちを救い、世界を変えていく営みでもあるのです。
 まるで渇ききった荒れ野、ごつごつした岩場のような現代の社会、そこにはたくさんの人たちが命の水を求めてさまよっています。わたしたち一人一人が喜びと力、神様の愛の湧き出す泉になることが、本当に求められていると思います。あらゆる岩を取り除き、愛の泉を掘り当てることができるよう、わたしたち自身が愛の泉となれるように祈りましょう。
※写真…赤目四十八滝にて。