バイブル・エッセイ(1090)収穫の働き手

収穫の働き手

 そのとき、イエスは、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」イエスは十二人の弟子を呼び寄せ、汚れた霊に対する権能をお授けになった。汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすためであった。十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネ、フィリポとバルトロマイ、トマスと徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。(マタイ9:36-10:4)

「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」とイエスはいいます。「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て」そういったというのですが、ちょっと違和感のある表現だと思います。なぜ、「弱り果て、打ちひしがれている」人たちを見て、イエスは「収穫」などという表現を使ったのでしょう。
 わたしは何となくわかるような気がします。それは、あちこちの教会や学校、幼稚園などでイエスの愛、神さまの愛について話していると、話している途中で顔が急にぱっと喜びで輝き始める人、感極まって泣き出す人がいるからです。別にわたしの話がうまいとかそういうことではなく、この人たちは、イエスが語った神の愛、弱くて不完全なわたしたちを、あるがままに受け入れてくださる神さまの愛に触れて、とてもうれしかった。救われた気がしたのだと思います。これが、イエスのいう収穫ということでしょう。日々の生活の中で疲れ果て、さまざまな試練に打ちひしがれた人々は、イエスの生涯において現れた神さまの愛、悲しむ人、苦しむ人にしっかり寄り添う無条件の愛を待ち望んでいるのです。「悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)とイエスがいっていますが、深い悲しみの中で苦しんでいる人こそ、最も慰めに近い人、救いに近い人なのです。「弱り果て、打ちひしがれている」人たちを見て、イエスが「収穫は多い」といったのは、きっとそういうことでしょう。そのような人たちこそ、まさに救われるのにふさわしい人、時が熟し、収穫されるのを待っている人たちなのです。
 わたしたちは、イエスによって収穫される実りであると同時に、イエスによって収穫のために派遣される弟子でもあります。それは、当然のことでしょう。イエスの愛に触れて、イエスの愛で心を満たされたわたしたちは、まだ救われていない人たち、「弱り果て、打ちひしがれている」人たちを見るとき、イエスと同じように「深い憐み」を感じ、その人たちのために何かせずにいられなくなるからです。イエスの愛に触れて救われたわたしたち、「ただで受けた」わたしたちは、今度は「ただで与える」ために遣わされるのです。
 わたしたちに委ねられた収穫、それは、イエスの愛、弱くて不完全なその人を、あるがままに受け入れてくださる神さまの愛を伝えることに他なりません。子育てに悩み、苦しんでいるお母さんに、「あなたがあなたなりに精いっぱいにやっているのを、神さまはよく知っているし、子どもさんたちもきっとわかってくれるはずですよ」と声をかけてあげること、他人と自分を比べ、劣等感に苦しんでいる若者に、「神さまはあなたに、あなただけの素晴らしさを与えてくださっています。人と比べる必要なんかないんですよ」と声をかけてあげること。それこそが収穫なのです。わたしたちが、それぞれの場で「収穫のための働き手」となれるよう、心を合わせて祈りましょう。

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