バイブル・エッセイ(828)すべてを差し出す

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すべてを差し出す

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)

貧しいやもめの方が、金持ちたちよりも賽銭箱にたくさん入れたとイエスは言います。「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて入れたから」というのです。やもめがたくさん入れたもの、それは神さまへの愛だと言っていいでしょう。やもめは賽銭箱に、自分のすべてを差し出すほどの愛を入れたのです。
問われているのは、神さまのためにどれだけ自分を差し出したか、神様をどれだけ愛したかということです。たとえば、災害の被災者たちが苦しんでいるという話を聞いた子どもが、お菓子を買おうと思って持っていた自分のわずかなお小遣いをすべて募金箱にいれるなら、たとえわずかな金額であっても込められた愛は限りなく大きいのです。教会のミサに行くということでも、家事や子育て、介護などに追われる日々の中で、わずかにできた時間でミサに行くということであれば、たとえ数時間のことであったとしても、そこに込められた愛は限りなく大きいと言えるでしょう。
神さまに自分を差し出す場所は、教会に限りません。自分を神様に捧げる、時間を神様に捧げるということは日常生活の中でどこでも、いつでもできることです。たとえば家族からひどいことを言われ、プライドが傷つけられたときに、「このプライドは、あなたにお捧げします」と言って怒りをぐっとこらえる。それは、神さまに自分を差し出すということでしょう。家族や友だちを愛するために、自分のプライドを捨てるということは、神さまの賽銭箱に愛を入れるということなのです。誰か苦しんでいる人から助けを求められたとき、「この忙しいときに、なんで来るんだ」などと思わず、他のことを脇に置いてもその人のために時間を割く。そのようなことによっても、わたしたちは自分をお捧げすることができます。苦しんでいる誰かのために惜しみなく時間を使うということは、神さまの賽銭箱に愛を入れるということに他ならないのです。
 神さまを愛すれば愛するほど、わたしたちは神さまの愛によって豊かに満たされてゆきます。神さまを愛するとは、あふれんばかりに降り注ぐ神さまの愛を、わたしたちがしっかり受け止めるということなのです。神さまのために自分を差し出すとき、空っぽになったわたしたちの心を、神さまの愛が豊かに満たす。そう言ってもいいかもしれません。神さまの愛が尽きることはありませんから、差し出せば差し出すほど、わたしたちは豊かになってゆくのです。
よく、「損して得とれ」という言い方をしますが、キリスト教徒の生き方はまさにこれです。自分を差し出せば差し出すほど、わたしたちは神さまの愛で心を満たされ、幸せになってゆくのです。ほんの一部ではなく、すべてを差し出すことができるように、差し出すことによってより豊かにしていただけるように祈りましょう。