バイブル・エッセイ(1093)誰のために背負うのか

誰のために背負うのか

 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」(マタイ11:25-30)

 疲れた者、重荷を負う者は、「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とイエスはいいます。自分の荷を背負えば疲れ、イエスの荷を背負えば安らぎを得られるというのです。一体どういうことでしょう。
 自分の荷というのは、自分の利益のために背負う荷物だと考えたらよいでしょう。自分の利益のために何かを運ぶ場合、人間はどうしても欲が出ます。「あれも欲しい、これもあったら便利だ」などと欲を出して次々と荷物を背負ううちに、荷物はだんだん背負いきれないほど重くなります。するとわたしたちは、自分の好きで背負った荷物なのに、「なぜ、こんなに重いんだ」と苦情をいい始めるのです。
 イエスの荷というのは、イエスが自分に与えてくれる荷物、イエスに与えられた使命だと考えたらよいでしょう。イエスは、わたしたちのことをわたしたち以上によく知っていて、わたしたちが担うのにぴったりな荷物、使命をわたしたちに与えてくださいます。その使命を担っているとき、「わたしにこんな使命、こんな素晴らしい家族、仕事、役割を与えてくださった神さまに、感謝せずにいられない」と思って喜びで満たされます。その荷物は、決して重くないのです。
 「軛」という言葉にも注目するべきでしょう。軛というのは、牛や馬の首と首をつなぎ、それに鋤などをかけて引かせるための横木のことです。イエスの軛につながれるというのは、神の国の畑を耕すという使命のために、仲間たちと力を合わせて働くということだと思ったらよいでしょう。一人で背負うなら、「なんでわたしだけこんな目に」と思うかもしれませんが、みんなで背負うなら、「苦しいのはわたしだけではない。力を合わせて頑張ろう」と思うことができるのです。
 同じ荷物を背負うにしても、自分の利益のために背負うのか、イエスのため、神の愛のために背負うのかによって重さが変わるといってもよいでしょう。わたし自身のことでいえば、病気などで苦しんでいる信者さんたち、イエスの言葉を聞いて喜んでくれる信者さんたちの顔を思い浮かべながら司祭としての使命を果たしているうちは、あまり疲れを感じません。疲れても、それは心地のよい疲労です。それが、ときどき、重荷に感じられることがあります。「みんなからいい神父と思われたい」という気持ちで、自分の利益のために司祭職を果たし始めると、途端に「ああ疲れた。なんでこんなに働かなければならないんだ」とか、文句をいいたくなってくるのです。与えられた使命を重荷と感じるようになったら、それは、自分の使命を忘れ始めたしるしといっていいくらいです。
 疲れたとき、荷物が重くになって仕方がなくなったときは、神さまの前で、一度荷物を下ろしたいと思います。そして、その荷物をもう一度、今度は自分の荷としではなく、イエスの荷として、みんなのために運ぶ荷物として背負い直すのです。みんなで担う軛として担い直すのです。このミサの中で、重い荷物を、軽い荷物に変えることができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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