たとえ全世界を手に入れても
イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:21-27)
「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」とイエスは言います。財産や地位、名声を手に入れたとしても、それによって罪の闇の中に落ち、魂を滅ぼしてしまったなんの意味があるだろうかということでしょう。財産や地位、名声などは、人間の幸せにとって本質的なことではないということを、この言葉は思い出させてくれます。
この言葉は、聖イグナチオがフランシスコ・ザビエルを回心させるときに引用した言葉としても知られています。没落しかけた貴族の家から、家運を立て直すという重大な使命を帯びてパリ大学にやってきたザビエルは、当初、大学での出世を何より大切に考えていました。そんなザビエルに、イグナチオは、「出世して富や名誉を得、一族の栄光を取り戻したとしても、それだけで君は満足できるのか」と問いかけたのです。そんなことよりも、もっと大切なことがある。神のより大いなる栄光のために自分の命を捧げてこそ、わたしたちは真の幸せ、真の救いに到達できるというのです。
確かに、富や名声、財産をどんなにたくさん得たとしても、それだけでわたしたちは幸せになることができません。例えば富。どれだけ多くの財産を手に入れたとしても、それだけで幸せになることはできません。財産を持てば持つほど、どうやってそれを守ろうかという心配や、財産を奪おうとする人たちへの怒り、もっと持っている人たちに対する妬みが生まれるからです。名誉もそうです。会ったこともない人たちから褒め讃えられるほど有名になれば、会ったこともない人たちから誹謗中傷されることも覚悟しなければなりません。名声が失われることへの恐れや、自分よりもっと有名になってゆく人たちへの妬みも生まれてきます。結果として、財産を持てば持つほど、有名になればなるほど、わたしたちは心の平安を失い、罪にまみれ、魂を滅ぼしてしまうのです。
「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とイエスは言います神様から与えられた使命に気づき、命がけで、全力でその使命を果たすときにこそ、わたしたちは本当の幸せ、「永遠の命」に到達することができるというのです。そのように、自分がどうなったとしても、神様のため、人々の幸せのために何かせずにいられない。みんなが幸せに生きられる世界、「神の国」を実現したい。そう思って生きることこそが幸せなのです。純粋な動機で、苦しんでいる人たちを救うため、よりよい社会を実現するために働いている人たちの周りに、自然に富や名声が集まってきます。多くの人が勘違いしていますが、富や名声は、幸せな人生の結果に過ぎません。富や名声を手に入れたから幸せになれる、ということではないのです。
手段と結果を取り違えないようにしたいと思います。たとえ全世界を手に入れたとしても、それで幸せになることはできないのです。幸せは、神から与えられた使命を、精一杯に生き抜くことの中にこそ、十字架を背負うことの中にこそある。そのことを忘れないようにしましょう。