バイブル・エッセイ(924)死ぬことによって生きる

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死ぬことによって生きる

 イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」(マタイ16:21-27)

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る」とイエスは言います。十字架を恐れて逃げれば、かえって命を失う。十字架を担ってこそ、本当の意味で生きられるのだということでしょう。ペトロは、十字架の恐ろしさは知っていましたが、十字架の向こう側にある復活の素晴らしさをまだ知らなかったのです。

「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」という言葉は、このコロナの時代に深く心に刻むべき言葉でしょう。コロナに感染することや、コロナ禍によって自分の生活が成り立たなくなることを恐れ、自分の命を守ることしか考えられなくなるとき、わたしたちは命を失ってしまうからです。皆さんも経験があるかもしれませんが、「これからどうなるんだろう。何でこんなことになってしまったんだろう」などと考えていると、夜もよく眠れません。仕事も手につかなくなり、まるでノイローゼのようになってしまいます。生き生きとした命の輝きを、すっかり失ってしまうのです。それが、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」ということでしょう。自分の命を守ることばかり考えている人は、自分で作り出した不安や恐れに押しつぶされ、かえって命を失ってしまうのです。

 そんなときには、神様から与えられた十字架、すなわち自分に与えられた使命を思い出しましょう。わたしたちには、一人ひとり大切な使命が与えられています。子どもを育てたり、高齢者の世話をしたり、会社で働いたり、教会で奉仕したり、毎日すべきことが山ほどあるはずです。将来のことは神様の手に委ね、自分に与えられた日々の使命、日々の十字架を思い出して、それを精いっぱいに背負う。そのとき、わたしたちの命は輝き始めます。誰かの役に立てることに生き甲斐を感じ、自分らしく生きていることを実感しながら、毎日をいきいきと過ごすことができるのです。「神様のために命を失う者は、かえってそれを得る」とは、そういうことだと思います。

 アッシジのフランシスコは「平和の祈り」の結びの部分で、わたしたちは「自分を忘れることによって自分を見出し、死ぬことによって永遠の命へと復活する」と言っています。自分の命を守ろうとするとき、わたしたちの心は不安や恐れで満たされ、かえって生きる力を失ってしまいます。自分を忘れて神様のため、人々のために生きることによってこそ、喜びと力に満ちた日々を生きられるのです。

 長引くコロナ禍の中で、将来に不安や恐れを感じるのは当然だと思います。わたしも、たびたび恐れや不安を感じ、暗い気持ちになることがありますが、そんなときには、自分の身の周りを見回して、状況を変えてゆくために、いま自分にできることを探すようにしています。食器を片付けたり、テーブルを拭いたりすることでもいいし、部屋を整理したり、ゴミを捨てたりすることでも構いません。みんなのために少しでも役に立つことを探し、それに熱中するのです。すると、心がだんだん晴れてきて、前向きな気持になります。どんな小さなことであっても、自分を忘れて奉仕するとき、必ずそこに神の恵みが注ぎ、生きる力が生まれるのです。日々の十字架を背負い、復活の力に満たされてイエスと共に生きることができるよう、ご一緒に祈りましょう。

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