バイブル・エッセイ(1095)よい麦と悪い麦

よい麦と悪い麦

 イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイ13:24-30)

 毒麦のたとえが読まれました。人間には麦であるよい人と、毒麦である悪人がいて、はっきり分けられるというような印象を与えるたとえ話ですが、イエスがいいたかったのは、むしろ「毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい」ということ、一見、悪人に見える人もいるが、本当に悪人かどうかを見分けるのはとても難しい。だから、自分で勝手に人を悪人と決めつけるなというこだとわたしは思います。
 しもべの一人が、主人に「畑にはよい種をお蒔きになったではありませんか」といっていることに注目すべきでしょう。神さまが世界という畑に蒔いた種は、本来すべて、神さまの愛を宿したすばらしい種、やさしさや思いやり、喜びや感謝を生み出す愛の種なのです。しかし、現実の世の中には、人の悪口をいったり、不法なことをしたりする人がいます。わたしたち自身、普段はよい人であっても、大きな試練に見舞われたり、疲れ切ったりして心が荒んでいるときには、つい悪口をいったり、思いやりに欠けた行動をとったりしてしまいがちです。本来よい種、よい人のはずなのに、なぜそんなことが起こるのでしょうか。
 それはきっと、よい種は、十分に愛の恵みを注がれることによって育ち、よい麦を実らせるということだと思います。逆にいえば、たとえよい種であっても、十分に愛を注がれなければ、毒麦を実らせてしまうことがあるのです。たとえば、小さな子どもたちの間で、ときどき、他の子どもの悪口を聞くことがあります。「〇〇ちゃんは、こんな悪いことをした」といった、告げ口のような言葉です。なぜそんなことをいうのかといえば、それはほとんどの場合、自分に注目してほしいからです。自分が愛されているという確信がないので、他の子の悪口をいって「ぼくの方がよい子だよ、ぼくを愛して」ということをアピールしているのです。そんなときは、その子のよいところを褒めてあげ、悪口の対象になった子のよいところも褒めてあげ、「みんなよいところがあるんだから、仲よくしようね」と語りかけたりして、たっぷり愛情を注いであげると、その子は悪口をいうのを止めます。
 これは、子どもだけでなく、大人の場合も同じでしょう。自分が注目されたいとき、愛されたいとき、愛されている人への嫉妬に駆られたとき、わたしたちはつい、人の悪口をいってしまうのです。誰かから十分に愛されていると実感したとき、人を嫉妬する必要などないときづいたとき、わたしたちは悪口をいうのを止め、人をいたわることができるようになります。人間は、愛されているときにはよい麦を実らせるけれど、愛が足りなくなったときには毒麦を実らせてしまうことがある。そういうことなのだろうと思います。
「神に従う人は人間への愛を持つべき」と知恵の書は語っています。わたしたちは、愛が足りなくなれば、よくない実をつけてしまうという弱さを持った人間同士。互いに愛しあうべきだということでしょう。裁きあうのではなく、愛しあうことによって、神さまの畑をよい実で満たすことが出来るように祈りましょう。

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