バイブル・エッセイ(794)地に落ちてこそ


地に落ちてこそ
「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」(ヨハネ12:23-28)
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とイエスは言います。自分の思い込みの殻を破り、神のみ旨のままに謙虚な心で生きるとき、自分自身に死んで、神様のみ旨のままに生きるとき、わたしたちの人生は豊かな実りで満たされるということでしょう。
 5月の下旬ころ、美祢の県道沿いの畑が、一面金色に輝き始めます。麦がたわわな実をつけ、5月のさわやかな風に揺れる、いわゆる「麦秋」がやって来たのです。とてもさわやかな光景ですし、麦たちも気持ちよさそうにしているのですが、いつまでも楽しんでいるわけにはゆきません。やがて刈り取られ、一部の麦は、地面に蒔かれて次の実りをもたらす使命を与えられることになります。地面に落ちない限り、大地に根を下ろし、茎を伸ばして新しい実をつけることはできないからです。居心地がいいからといって高い所にいては、実をつけることができない。地面に蒔かれ、泥にまみれてこそ実を結ぶことができる。これは、わたしたち人間にも当てはまりそうです。自分の殻に閉じこもり、高い所から他の人を見下すような態度で生きている限り、わたしたちは何の実りももたらすことができません。地面に落ちて、自分自身の限界や、人間社会の汚い部分に直面して泥にまみれるときにこそ、わたしたちの中で新しい命が動き始めるのです。
 社会に出た青年は、自分自身の無力さを思い知らされ、自分が自分で思っていたほどすごい人間ではないということに気づかされます。屈辱にまみれることによって自分の限界を知り、そこから新しい第一歩を踏み出してゆくのです。社会の中のさまざまな矛盾や悪に直面する中で、自分の人生にどんな意味があるのかと疑問を感じることもあるでしょう。ですが、そのような社会の現実にまみれる中で、青年は自分に与えられた本当の使命に気づきます。「こんなに弱いわたしでも、神様から与えられた使命がある。よりよい世界を作り、誰かを幸せにするために与えられた使命がある」。そう気づいた青年は、そこから本当の自分になるための成長を始めるのです。泥にまみれるときにこそ、わたしたちの心に宿った、泥にまみれても腐ることのない永遠の命の種が動き始めると言っていいでしょう。
 麦は、蒔かれる場所を選べないように、わたしたちも自分が生きてゆく場所を選べない場合があります。ですが、どこに落ちても、落ちる場所は必ず神様の愛の大地の上だということを忘れないようにしたいと思います。わたしたちが殻をやぶり、心を開けば、神様の愛の大地がわたしたちの心を豊かな栄養で満たしてくれるのです。信じて心を開き、神様の愛の大地にしっかり根を張ってゆくことで、わたしたちは成長し、たくさんの実をつけることができるでしょう。
 高い所にいる限り、麦は一粒のままです。地面に落ち、泥にまみれてこそ、芽を出し育ち始めるのです。神様の愛にしっかり根を下ろし、育ってゆくことができるように祈りましょう。