バイブル・エッセイ(1111)自分の心に聞く

自分の心に聞く

 イエスは群衆と弟子たちにお話しになった。「律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(マタイ23:1-12)

 律法学者やファリサイ派の人々のすることは、「すべて人に見せるためである」とイエスはいいます。神への愛につき動かされ、そうせずにいられなくなってしていることではなく、すべて自分がよく見られるため、自分自身のためだということです。偽善だといい換えてもよいでしょう。神が望まれるのは、そのようなうわべだけの行動ではなく、愛につき動かされてする行動、愛の行いなのです。
 わたしたち自身はどうでしょうか。どう行動するか決めるとき、その判断の基準になっているのは何でしょう。わたし自身もそうですが、多くの人はきっと、人からどう見られるかということを判断の基準の一つにしているのではないでしょうか。ある意味で、それは必要なことだと思います。わたし自身であれば、「このような言動は信者さんたちのつまずきにならないか」ということは考えるべきでしょう。ただ、それが、「どうしたら信者さんたちからよく思われるだろう」になると話が変わってきます。「信者さんたちがつまずかないように」が、「自分がよく見られるように」となると、自分中心の、自分のための行動になり、愛がなくなってしまうからです。
 周りの人をつまずかせないために、義務感からする行動もときには必要ですが、それではまだ不十分でしょう。そこには、まだ愛がないからです。愛につき動かされて行動するためには、「人からどう見られるか」と考える以前に、「自分の心は、いま何を望んでいるだろうか」と考える必要があるでしょう。自分自身の心としっかり向かい合い、自分の心がいま何を望んでいるかを感じとるのです。自分の心の中に宿っている愛、わたしたちの心の中に住むイエス・キリストが何を望んでいるかを感じとるといってもよいでしょう。自分の心と向かい合い、心の中に宿った愛の命じるままに行動するとき、わたしたちの行動ははじめて愛の行動になります。自分のことは脇において、「この人のために、手を差し伸べずにはいられない」「この人に、何かあたたかい励ましの言葉をかけてあげずにはいられない」という気持ちになって行動する。それこそが、愛の行動なのです。愛につき動かされながら、信者さんたちをつまずかせないように賢明な配慮も怠らずに行動する。それが理想なのではないでしょうか。
 わたし自身のこととしてお話ししましたが、信者さんをつまずかせない配慮を、家族や友人など周りの人に迷惑をかけないための配慮ということで置き換えれば、そのまま皆さんにも当てはまるでしょう。何より考えるべきなのは、「人からどう見られるか」ではなく、「自分の心はいま何を望んでいるか。自分の心の中に宿った神の愛、イエス・キリストは何を望んでおられるのか」ということです。他人の目でもなく、自分自身の利益でもなく、心に宿った神の愛、イエス・キリストを何よりも優先して生きられるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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