バイブル・エッセイ(967)キリストの愛を生きる

f:id:hiroshisj:20210509171009j:plain

キリストの愛を生きる

「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。」(ヨハネ15:9-17)

「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」とイエスは言います。愛し合うなら、わたしたちはキリストの愛のうちにとどまり、心の隅々まで喜びに満たされるというのです。イエスの残したこの掟こそ、わたしたちを幸せへと導く道しるべであり、天国の門を開く鍵だと言ってよいでしょう。

 キリストの愛は、いつもわたしたちの心の奥深くに生きています。わたしたちの心の奥深くに宿り、わたしたちを愛したい、すべての被造物を愛したいと願っておられるのです。しかし、わたしたちはなかなかその愛に気づきません。自分を守ることや何かを手に入れることばかり考えて、キリストの愛に心を向けている暇がないのです。「あれもしなければ、これもしなければ」「あれも欲しい、これも欲しい」と考えるのをいったん止め、神さまに心を向けるとき、家族や隣人の苦しみや悲しみに心を向けるとき、わたしたちの中に宿ったキリストの愛が動き出します。自分のことを考えるのを止め、神の前に、家族や隣人の前に自分を差し出すとき、わたしたちの心はキリストの愛で満たされるのです。

 キリストの愛に満たされるとき、わたしたちの心に静かな喜びが湧き上がります。心を満たした愛、あふれ出す喜びは、わたしたちの周りにいる家族や隣人の心に向かって流れ出してゆきます。こうして、わたしたちはキリストの愛に心を開き、キリストを愛することによって、互いを愛するようになるのです。愛し合うわたしたちのあいだに、キリストの愛が生きていると言ってもよいでしょう。生きているキリストの愛に満たされるとき、わたしたちは互いに愛し合わずにいられなくなるのです。

「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」というイエスの言葉の中に、愛とは何であるかが要約されているように思います。愛するとは、相手を自分のものにすることではなく、むしろ相手のために自分を差し出すことなのです。自分のことばかり考えるのを止め、キリストのため、人々のために自分を差し出すことなのです。この人のためなら、自分の命を、自分の生涯を差し出してもかまわないとさえ思う。この人を幸せにすることこそが、自分の幸せに他ならないと確信できる。それこそが真実の愛、キリストの愛なのです。

 キリストの愛に駆り立てられ、キリストの愛を生きているとき、わたしたちにできないことは何もありません。すべてをゆるし、すべてを受け入れ、家族との間に、友との間に、そして全世界に平和を実現することさえ可能なのです。キリストの愛を生きるとき、わたしの願いはすべて叶い、豊かな実を結ぶことが出来ると言ってよいでしょう。キリストの愛は、いまこの瞬間にもわたしたちの心の奥底に生き、わたしたちに向かって語りかけています。その声に向かって心を開くことができるよう、キリストの愛に満たされて互いに愛し合い、この世界に神の国を実現してゆくことができるよう共に祈りましょう。

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

www.amazon.co.jp

books.rakuten.co.jp