バイブル・エッセイ(1113)「天の国」の喜び

「天の国」の喜び

「天の国はまた次のようにたとえられる。ある人が旅行に出かけるとき、僕たちを呼んで、自分の財産を預けた。それぞれの力に応じて、一人には五タラントン、一人には二タラントン、もう一人には一タラントンを預けて旅に出かけた。さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた。まず、五タラントン預かった者が進み出て、ほかの五タラントンを差し出して言った。『御主人様、五タラントンお預けになりましたが、御覧ください。ほかに五タラントンもうけました。』主人は言った。『忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ。』」(マタイ25:14-15、19-21)

 預かった5タラントンから、他に5タラントンをもうけたしもべに向かって、主人が「お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」といったという話が読まれました。5タラントンというのは、現代の感覚では、数千万円から数億円ということですから、決して「少し」ではないのですが、この主人は、きっと想像もつかないほど大きな財産を持っていたのでしょう。
 少しのものに忠実な人に、より多くのものを管理させるというのは、わたしたちの周りでもよくあることでしょう。少しのものもおろそかにせず、忠実に管理する人は、信頼できる人だと考えられるからです。神父を例にしていうならば、信徒数の少ない小教区をきちんと世話できる神父は、信頼できる神父だ。だから、もっと信徒数の大きな小教区を任そう、というようなことになるでしょう。イエスがいっていることは、世間一般の常識にもかなったことなのです。
 しかし、忘れてはいけないのは、この話は世間一般の話ではなく、「天の国」のたとえ話だということです。この地上で、頑張った分の報いが与えられるというような話ではないのです。もし世間一般の話だとすれば、わたしのように欲深い神父は、「いまはこんな人数の少ない小教区だが、我慢してしっかりやれば、もっと人数の多い小教区をまかせてもらえるかもしれない」というような気持ちになるかもしれません。はたしてそれで「天の国」に入れるでしょうか。そのように自分のことしか考えていない人が、「天の国」にすんなり入れるとは思えません。
 では、この話はどのように理解したらよいのでしょう。主人から預かった「少しのもの」を、わたしたちの人生そのものだと考えてみてはどうでしょうか。わたしたちが、この世界で生きているあいだに神さまからいただくお恵みと考えてもいいでしょう。神さまから預かったこの命を惜しみなく使い、この世界に神さまの愛をどんどん広げていく。それが、「他に5タラントンもうける」ということになるでしょう。神さまからいただいたお恵みは、みんなと分かち合うことでどんどん大きくなっていくのです。神父の例でいえば、自分にまかせられた小教区ではなく、神父として生きられること自体を神さまからのお恵みと考え、そのお恵みを信徒たちと分かちあうということになるでしょう。そうすることで、その神父は、この地上で頂く恵みよりもはるかに大きな「天の国」の恵みをいただくことができるのです。この地上にいるうちから、自分の教会で、「天の国」の喜びを味わうことができるといってもいいでしょう。
 神さまの前で忠実であるとは、神さまからいただいた恵みを、みんなと惜しみなく分かちあうことに他なりません。恵みを惜しみなく分ちあう人に、神さまは、想像もつかないほど大きな「天の国」の喜びを与えてくださるのです。この地上で与えられた「少しのもの」に忠実であることによって、「天の国」の喜びに入ることができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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