バイブル・エッセイ(876)救いの法則

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救いの法則
イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ17:11-19)

 病を癒されたことを感謝するために戻ってきたサマリア人に、イエスは「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と語りかけました。体が癒され、心を神への感謝で満たされたこの人に、救いが訪れたということです。戻らなかった人たちは、体は癒されたかもしれませんが、心に救いが訪れたかどうかは分かりません。救われるためには、神に感謝する心が必要だということを、この話はわたしたちに教えているようです。

「喉元過ぎれば熱さを忘れる」と言いますが、わたしたちは、何か困難に直面したときには神さまに祈るけれども、困難が取り去られたときには、神さまを忘れてしまうことが多いようです。救ってもらったことは忘れて、さらに、「あれも足りない、これも足りない」と神さまに不満を言うことさえあります。それでは、いつまでたっても心は満たれないし、救いに到達することもできないでしょう。

 わたし自身の体験で言えば、これまでの人生の中で一番たくさん祈ったのは、神父になるときでした。叙階が本当に認められるかどうかは、最後まで分かりません。決定直前の時期は「神さま、どうかみ旨であれば神父にしてください」とずいぶん祈ったものです。叙階が認められたときは、心の底から「神さま、どうもありがとうございました」と感謝しました。

 ところが、最近どうも、そのことへの感謝を忘れがちです。神父になれたことだけでも感謝すべきことなのに、それだけで満足できず、神さまに不満を言ってしまうのです。「神さま、あれが足りません。あれさえ手に入れば幸せになれるのに」とか、「なぜこんな目に会わせるのですか」とか、ないものばかりを見て、「自分はなんて不幸なんだ」と思い込んでしまうのです。

 そんなとき大切なのは、叙階の喜びを思い出すことです。喜びを思い出し、感謝の心を取り戻しさえすれば、あれが足りない、これが足りないと不満ばかり言ってつまらなそうな顔をしていては申し訳ないという気持ちになります。神さまにして頂いたことを思い出して感謝するとき、心に湧き上がる喜び。それこそ、わたしたちに与えられる救いなのでしょう。

 一人ひとりに、そのような大きな恵みの体験があると思います。たとえば、結婚について、いまは色々と苦情があるかもしれませんが、そもそも結婚できたということ自体が神さまからの恵みなのです。子どもについても、いまは色々と文句が言いたくなるかもしれませんが、そもそも生まれてきてくれたということが恵みなのです。そのことを思い出して感謝するとき、わたしたちの心は喜びで満たされます。その喜びが、さまざまな困難を乗り越えてゆくための力になるのです。

 感謝しなければ、どんな大きな恵みも手のひらをすり抜け、心を満たすことがありません。逆に、どんなわずかな恵みでも、大きな感謝で受け取れば、心を十分に満たすことができます。それが、救いの法則だと言っていいでしょう。受け取った恵みへの感謝を忘れず、いつも謙虚な心で生きてゆくことができるよう神さまに祈りましょう。