バイブル・エッセイ(1133)愛を証しする

愛を証しする

「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」(ヨハネ3:14-21)

 モーセがニコデモに、「人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」と語る場面が読まれました。自分が十字架につけられるのは、人々に神の愛を信じさせるため。信じて永遠の命を得させるためには、自分が命を捧げ、十字架につけられる必要があると、イエスは考えていたのです。
 なぜイエスは、そのように考えたのでしょう。そもそも、イエスはなぜ十字架につけられたのでしょうか。それは、イエスが神の愛を説いたからに他なりません。神の愛は無償であって、高価ないけにえを捧げなければ神からゆるされないという考え方は間違っている。職業や身分、財産などに関係なく、すべての人がかけがえのない神の子であり、すべての命は神の前に限りなく尊い。そのことを言葉と行いによって人々に教えたために、イエスは律法学者やファリサイ派の人々の怒りを買い、ローマ兵たちに引き渡されることになったのです。十字架につけられても、イエスは決してその教えを曲げることがありませんでした。あらゆる侮辱や痛みに耐え、神の愛の教えを最後まで守り抜いたのです。わたしたちは、誰もがかけがえのない神の子であることを命がけで証ししたのです。
 神の愛は、十字架によって証しされるということは、すべての時代に当てはまる真実だと思います。十字架というのは、神さまからわたしたち一人ひとりに与えられた、誰かを愛する使命のことだといってもよいでしょう。たとえば、お父さんやお母さんには、自分の子どもたちを愛し、守り育てるという尊い使命が与えられています。その使命を果たすために日々、懸命に働くことによって、ときにはいわれのない侮辱にさえ耐えることによって、お父さんお母さんたちは自分に与えられた十字架を日々、背負いながら生きていくのです。子どもへの愛のために、自分を十字架に捧げているといってもよいでしょう。その姿を見るとき、子どもたちは、親の愛を確信するに違いありません。神の愛、神によって人間に与えられた無私の愛は、十字架によってこそ証しされるのです。
 人それぞれに十字架は違いますが、すべての人に誰かを愛する使命、神の愛を証しする使命が与えられていることは間違いありません。わたし自身であれば、たとえどんなに疲れても、多少の嫌なことがあったとしても、司祭として皆さんに奉仕すること、その使命を果たすことで自分を十字架につけ、神の愛を証しすることが使命だといってよいでしょう。学校や幼稚園で子どもたちのために自分を捧げる人、老人ホームなどで高齢者のために自分を捧げる人、医療機関で病気の人たちのために自分を捧げる人、それぞれに十字架は違いますが、誰もが神の無償の愛を証しているのです。共にそれぞれの十字架を担い、神の愛を証しし続けることができるよう祈りましょう。

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