バイブル・エッセイ(1089)永遠に生きる

永遠に生きる

「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」(ヨハネ6:51-58)

「わたしを食べる者はわたしによって生きる」、それも「永遠に生きる」とイエスはいいます。食べれば生き、食べなければ死んでしまうキリストの体とは、いったい何なのでしょう。食べれば永遠に生きるとは、いったいどういうことなのでしょう。
 御聖体を頂かなくても、急に死んでしまうことはありませんから、イエスがいう「食べれば生きる」というのは、体の生き死にのことをいっているわけではなさそうです。むしろ、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と申命記に記されている意味での生きる。その人が、自分の命の本当の価値に気づき、神の子として生き生きと生きる。神の子としての使命に気づき、神のため、隣人のために自分の命を差し出して生きる。互いに愛し合って生きる。そのような意味での「生きる」でしょう。御聖体を頂くことによって、わたしたちは、自分の本来の姿を取り戻し、「これこそ生きるということなんだ。なんてすばらしいんだろう」と毎日思いながら、一日一日を心から感謝して生きられるということです。
 では、御聖体を食べるとはどういうことなのでしょう。それは、イエス・キリストがこの地上で生きたすべての愛を深く味わい、自分の一部にするということでしょう。単に「神の愛」を味わうということではありません。イエスがこの地上で生きた神の愛、十字架と復活を頂点とする、生身の人間によって生きられた神の愛をかみしめるということです。イエスがそのとき、いったいどんな思いで弟子たちにこの言葉をいったのか。十字架の上で、体の痛みや飢え、渇きに苦しみながら、体のあちこちから血を流しながら、イエスはいったい何を思ったのか。そのときのイエスの思いをしっかりかみしめ、イエスの愛を心に深く刻んでゆくこと。それこそ、キリストの体を食べるということなのです。
 キリストの体を食べるとき、わたしたちは、それほどまでに神から愛されている自分の価値に気づき、本来の自分を取り戻します。神の子として、生きるようになるのです。では、「永遠に」とはどういうことでしょう。肉体の死は避けがたいものですから、永遠に生きるといわれても、にわかには信じられません。それはきっと、肉体を越えた命のことをいっているのだと思います。わたしたちがいま生きているということは、単に肉体が生きているということではなく、神の命がわたしたちを生かしているということ。わたしたちのうちに神が宿っているということなのです。神に愛され、神の子として生きるわたしたちは、神の命によって生かされているのです。この命は、わたしたちの肉体が滅びても、永遠に消えることがありません。その意味で、わたしたちは永遠に生きるのです。わたしたちは、永遠に消えない神の命を生きているのです。
 御聖体を頂くたびごとに、このことを思い出し、深く心に刻みたいと思います。御聖体の愛に生かされて神の子として生きるわたしたちは、肉体の死を越えて永遠に生き続けるのです。この命を与えられたことに感謝して、共に祈りをお捧げしましょう。

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