バイブル・エッセイ(819)愛の実り


愛の実り
 そのとき、ファリサイ派の人々と律法学者たちが尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは昔の人の言い伝えに従って歩まず、汚れた手で食事をするのですか。」イエスは言われた。「イザヤは、あなたたちのような偽善者のことを見事に預言したものだ。彼はこう書いている。『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている。」(マルコ7)
「この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている」というイザヤの言葉を引用しながら、イエスが律法学者たちに間違いを指摘する場面が読まれました。神を愛すると口先では言いながら、実際には自分のことばかり考え、自分の利益を守るために神の教えをゆがめることさえ平気でする律法学者たち。貧しい人たち、弱い人たちを「罪びと」と呼んで見下し、自分たちだけが神に選ばれたものだと主張する律法学者たちを見て、黙っていられなくなったのでしょう。もし本当に神を愛し、讃美しているならば、そんなことはできないはずなのです。
「みなしごや、やもめが困っているときに世話をし、世の汚れに染まらないように自分を守ること、これこそ父である神の御前に清く汚れのない信心です」とヤコブは言っています。もし本当に心が神の愛で満たされているなら、わたしたちは誰かが苦しんでいるのを見て、放っておくことができなくなるでしょう。神を愛しているなら、当然、「みなしごや、やもめが困っているときに世話を」するようになるのです。もし本当に神から愛されていることを実感し、そのことを神に感謝して生きているならば、世の悪に染まって神を悲しませるようなことは決してしないでしょう。神を愛しているなら、当然、「世の汚れに染まらないように自分を守る」ようになるのです。
 このヤコブの言葉は、確かに真実だと思います。神の前に跪いてゆるしを願い、心が神の愛で満たされるとき、わたしたちは人を見下したり、裁いたりすることができなくなるのです。もし、人の悪口を言ったり、周りに迷惑をかけたりするような人がいたとしても、「この人はダメな人だ。いなくなればいい」と思う代わりに、「この人はなぜ、こんなことを言わなければならないのだろうか。この人のために、自分は何をしてあげられるだろうか」と考えられるようになるのです。自分自身も、これまでたくさんの人に迷惑をかけてきた。それにもかかわらず神様は自分のことをゆるしてくださった。そのことを骨身にしみて知っているので、腹が立つよりも先に、相手へのあわれみ、慈しみが湧き上がってくるようになるのです。
 また、神から愛されていることを実感し、心の底から神に感謝して喜びに満たされるとき、わたしたちは神を裏切るようなことが決してできなくなります。欲望に負けて何か悪いこと、してはいけないことをしたくなっても、「こんなことをすれば、きっと神様が悲しまれるに違いない」と思えば、それができなくなるのです。もちろん、神様はわたしたちの弱さを知り、罪を赦してくださる方です。ですが、だからこそ、わたしたちとしては、それほどまでに愛して下さる方を悲しませたくないと思うのです。
 口先で神を讃美するだけでなく、神の愛を心の底から実感し、神を讃美することができるように。言葉だけでなく、愛から自然に湧き上がる行いによって神を讃美することができるように、共に祈りましょう。

フォト・ライブラリー(591)熊本YMCA「あそぼうキャンプ」2018

熊本YMCA「あそぼうキャンプ」2018

熊本地震や九州北部豪雨、東日本大震災などの自然災害で被災した子どもたちの心の癒やしを願う、熊本YMCA「あそぼうキャンプ」が、今年も阿蘇YMCAキャンプ場で開催されました。

今年は、子ども40人とスタッフ50人が集結。カトリック山口・島根地区からは、萩光塩学院とサビエル高校の高校生ボランティア計12名と引率の教員2名、そしてわたしが参加しました。

グリーン・バレー牧場で、ホースセラピーを体験する子どもたち。大自然との一体感を味わいながら、馬の大きな背中に揺られているうちに、心がほっこりほぐれてゆきます。

さわやかな風が吹き抜ける阿蘇の草原。熊本地震からもう3回目の夏を迎えましたが、いまだに3万人以上の方々が仮設住宅で暮らしておられます。

参加者の中には、東日本大震災で熊本に避難中に熊本地震に被災した子や、九州北部豪雨と熊本地震で続けて家を失った子も。子どもたちの気持ちを思うと、胸が痛みます。

牧場の片隅に咲いたカワラナデシコ。人知れず、ひっそり咲いていました。

かわいらしい花を咲かせたメマツヨイグサ。夏の牧場は、花たちの宝庫でもあります。

ミソハギの群落。訪れる人のほとんどいない、山の中のお花畑です。

阿蘇大自然の中を流れる、マゼノ渓谷のせせらぎ。川底の黒い岩は、9万年前の阿蘇山の噴火で流れ出した溶岩だそうです。

湧水が多く、豊かな水に恵まれた阿蘇。ひんやり冷たい水に癒やされます。

水遊びを楽しむ子どもたち。タオルを水につけて首にかけると、熱中症の予防にもなります。

阿蘇の外輪山に残された、江戸時代の参勤交代の道。熊本のお殿様は、阿蘇を通って大分に向かい、そこから江戸を目指したそうです。

グループワークの一つとして、この道を歩き、阿蘇の湧水を探しに出かけた子どもたちもいました。

汗だくになって、ようやく探し当てた湧水。冷たくておいしい水でした。

2日目の晩に行われたキャンプファイヤー。歌って踊って、本当に楽しいひと時でした。

キャンプファイヤーの最後は、静かに生命の神秘について考えて終わりました。この場面でのお話と、最終日の祈りの集いが、今回のわたしの主な役割でした。

閉会式の一コマ。今年も全国から、PTSDの治療を専門としているお医者さんたちや、児童心理学の専門家のみなさんが集まり、スタッフとして大活躍しておられました。病院の院内学級の教師としてNHK『プロフェッショナル仕事の流儀』で紹介されたこともある副島賢和先生や、不登校の子どもたちの心のケアをしておられる東京学芸大学の小林正幸先生の姿もありました。

風にたなびくYMCAの旗。山口・島根から参加した高校生たちにとっても、今回のキャンプは素晴らしい体験になったようでした。

雄大阿蘇大自然。お母さんたちのお話では、夜中に地震が起こったときにいた部屋に、夜になる入れないなど、子どもたちの心には震災の傷が残っているとのこと。子どもたちの心が、一日も早く癒やされるよう、これからもできる限りの支援を続けてゆきたいと思います。

バイブル・エッセイ(818)永遠の命の言葉


永遠の命の言葉
 弟子たちの多くの者はこれを聞いて言った。「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか。」イエスは、弟子たちがこのことについてつぶやいているのに気づいて言われた。「あなたがたはこのことにつまずくのか。それでは、人の子がもといた所に上るのを見るならば……。命を与えるのは“霊”である。肉は何の役にも立たない。わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」イエスは最初から、信じない者たちがだれであるか、また、御自分を裏切る者がだれであるかを知っておられたのである。そして、言われた。「こういうわけで、わたしはあなたがたに、『父からお許しがなければ、だれもわたしのもとに来ることはできない』と言ったのだ。」このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」(ヨハネ6:60-69)
「あなたたちも離れて行きたいか」と問うイエスに、十二使徒たちは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか」と答えました。あなただけが「永遠の命の言葉」を持っていると、自分たちはよく知っている。あなたを離れては、生きてゆくことができないということでしょう。
 十二使徒たちは、誰もがイエスとの出会いを通して苦しみや絶望の闇から救い出され、喜びと希望に満ちた新しい命に生まれ変わった人たちでした。魚をとっていた漁師のサイモンは、「人間をとる漁師」ペトロとなり、人々から税金を集めていたペトロは、神の言葉を人々に惜しみなく配る使徒ペトロとなったのです。みな、自分たちを救い出し、いまの自分にしてくれたイエスに心の底から感謝していたに違いありません。
 イエスが持っている「永遠の命の言葉」とは、わたしたちを苦しみや絶望の闇から解放するイエスの教えであり、愛に満たされたイエスの存在そのものだと言っていいでしょう。この言葉に従い、神さまの愛に満たされて生きるとき、わたしたちは自分の本当にあるべき姿に生まれ変わり、永遠に消えることのない喜びに満たされるのです。逆に言えば、イエスを離れては、決して幸せになることができないということでもあります。弟子たちは、自分自身の体験に基づいて、そのことをよく知っていました。
 わたし自身もかつて、自分の人生に迷い、どちらに進んでいいのかも分からないような闇の中にいたことがありました。地上での名誉や栄光、財産などに心を惹かれ、どの道が自分にとって一番得なのかと考えるうちに、すっかり迷子になってしまったのです。そんな迷いから抜け出す突破口を探して、わたしはインドに出かけ、マザー・テレサと出会いました。マザーを通してイエスと出会い、人生で一番大切なのは、自分のことを忘れて誰かを愛することだ。損得勘定を捨て、自分の心が命じるままに、神の愛を生きることだと教わったのです。その教えに従い、イエスの愛に満たされて生きる道を選んだことで、わたしは闇から解放されました。そのことを思い出すたびに、わたしはイエスだけが「永遠の命の言葉」を持っているということを痛感します。
 皆さんも、それぞれ同じような体験があることでしょう。会社や家庭でのトラブルに疲れ果て、生きる希望を失っていたときに、教会の人たちとの出会いを通してイエスに導かれ、生きる希望を取り戻した。自分の人生に意味があることに気づき、新しい自分に生まれ変わった。そんな体験です。ミサの中で、わたしたちも弟子たちと同じように、「あなたを置いて誰のところに行きましょう」と祈ります。それぞれに、自分自身が闇の中から救い出された体験を思い出し、イエスのもとを離れてはどこにも自分の幸せがないという確信を込めて、この言葉を祈りましょう。

フォト・ライブラリー(590)「花の海」のヒマワリ2018

「花の海」のヒマワリ2018

山陽小野田市のシステム農場「花の海」で、今年もヒマワリが満開を迎えました。

猛暑の影響で、成長が遅れた今年のヒマワリ。例年よりも小ぶりですが、美しさは変わりません。

埋立地に作られた畑を埋め尽くした、数万本のヒマワリ。元気をもらえる黄色です。

元気いっぱいに咲くヒマワリたち。まるで、夏休みの子どもたちのようです。

真っ青な空と白い雲、そして黄色いヒマワリの絨毯。夏全開の景色です。

暑くて長くとどまることはできませんが、一周するだけで夏を満喫できる「花の海」のヒマワリ畑。太陽の恵みに感謝です。

フォト・ライブラリー(589)広島平和記念行事2018

広島平和記念行事2018

8月6日朝、今年も広島市・世界平和記念聖堂で、原爆の投下時間8時15分に合わせて原爆犠牲者のための追悼ミサが行われました。

8月6日の平和記念公園。世界中から訪れた人々が、原爆犠牲者の慰霊のため、世界の平和のために祈りを捧げていました。

「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。この広島の町、この平和記念堂ほど強烈に、この真理を世界に訴えている場所はほかにありません。」ヨハネ・パウロ二世「平和アピール」

「広島を考えることは、核戦争を拒否することです。広島を考えることは、平和に対しての責任をとることです。戦争という人間がつくり出す災害の前で、『戦争は不可避なものでも必然でもない』ということを我々はみずからに言い聞かせ、考えてゆかねばなりません。」ヨハネ・パウロ二世「平和アピール」

「今この時点で、紛争解決の手段としての戦争は、許されるべきではないという固い決意をしようではありませんか。暴力と憎しみにかえて、信頼と思いやりとを持とうではありませんか。」ヨハネ・パウロ2世「平和アピール」

「神よ、わたしの声をお聞きください。そして、憎しみには愛を、不正に対しては正しさを求める堅い決意を、貧しさには分かち合いを、戦争には平和をもって応じることができるよう、知恵と力をお与え下さい。」ヨハネ・パウロ2世「平和アピール」

バイブル・エッセイ(817)低い者を高く


低い者を高く
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:47-55)
 主は「身分の低い者を高く上げる」と言われている通り、この地上で自分を低くしてイエスに仕えた聖母マリアは、死後、天の高みにまで挙げられました。今日は、そのことを祝う聖母被昇天の祭日です。この出来事は、謙虚な心で生きる人、自分を一番低いところにおいて、すべての人に奉仕する人こそが天国に一番近いことを教えているように思います。 わたしの身の回りにいる人物で、謙遜さの極みを生きている人と言えば、やはり協力司祭のオレギ神父様でしょう。先日も、こんなことがありました。オレギ神父様が「サッカー宣教師」として日本経済新聞で紹介されたと聞いて、わたしは大騒ぎで新聞を取り寄せ、「すごいですね」と言いながらオレギ神父様にプレゼントしました。ところが、オレギ神父様は「いや、わたしはいらない」とにべもなく断られたのです。そのような地上の名誉は、自分には必要がないということなのでしょう。教え子が自分のことを覚えていたということについては喜んでおられましたが、新聞に載ったこと自体はどうでもいい。そんな風でした。
 一事が万事ということがありますが、オレギ神父様はどんなときでも、人の上に立とうとすることがありません。人の上に立って相手を見下すということがまったくないのです。それはつまり、自分を一番低い所においているということでしょう。上からの目線で相手を裁くようなことも、もちろんありません。どんなときでも相手のよい所を見つけ出し、あらゆる違いを越えて相手をやさしく包み込んでゆく。それがオレギ神父様のやり方です。
 当然、オレギ神父様の周りにはいつも平和があります。ご自身が、何かについて腹を立てて感情的になっているところを、わたしは見たことがありません。どんなことがあっても、謙虚な心で自分を省み、相手を、あるいは状況を受け入れてゆくので、オレギ神父様の心にはいつも平和があるのです。そのようなオレギ神父様の周りにいると、わたしたちの心にも平和が広がってゆきます。あるがままの自分を受け入れてくれる人、心ない批判を受ける可能性がまったくない人と話すとき、わたしたちの心は喜びと安らぎで満たされてゆくのです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)とイエスご自身が言っておられますが、オレギ神父様のように自分を低くし、謙虚な心で生きる人こそ、まさにこの地上に平和を実現する人であり、神の子と呼ばれるにふさわしいのです。
 聖母マリアもこのような方であったことは間違いないと思います。謙虚な心で、相手をあるがままに受け容れられる人。自分の思ったこと通りにことが運ばなかったとしても、「すべてを心に納めて思い巡らす」人。それが聖母マリアなのです。当然、聖母の周りにはいつでも平和がありました。自分の身を低くして平和を実現した聖母を、神は高く天にまで挙げられたのです。わたしたちも、聖母のように、またオレギ神父様のように生きられるよう祈りましょう。

フォト・ライブラリー(588)『原爆と沈黙』上映会

『原爆と沈黙』上映会

8月5日、カトリック宇部・小野田協働体の平和記念行事として、ETV特集『原爆と沈黙〜長崎浦上の悲劇』上映会と製作ディレクターである渡辺考さんによるお話し会が行われました。

当初、『原爆と沈黙』の上映会のみを考えていましたが、そのためにはNHKに許可を取らなければならない。でもどうしたらいいんだろう、と話しているうちに、「その番組を作った人を知っている」という信徒が現れ、その人から直接、ディレクターの渡辺さんに連絡を取っていただきました。すると、なんと上映許可だけでなく、「それなら、わたしが行ってお話しします」という話に展開。思いがけず、今回のお話し会となりました。

渡辺考ディレクターは、実はカトリック信徒。戦争をテーマにした数々の番組の他、東京教区の後藤神父様のカンボジアでの活躍を描いた『ファーザー』という映画も製作しておられます。今回は、番組では紹介されなかった裏話も含めて、とても興味深いお話をお聞きすることができました。

原爆を「神から与えられた試練」と受け止める考え方や、被爆者に対する差別のため、原爆に対する怒りを表現できず、「沈黙」を強いられてきた浦上の人々の葛藤。さらに、浦上の中にあった被差別部落の方々が受けた、部落差別と被爆者差別の二重の差別など、とても考えさせられるお話でした。番組の中で紹介された、「ゲンバク」というあだ名をつけられて学校でいじめられた少年の話は、書籍化もされています。興味のある方は、ぜひご一読ください。

ゲンバクとよばれた少年 (世の中への扉)

ゲンバクとよばれた少年 (世の中への扉)