バイブル・エッセイ(817)低い者を高く


低い者を高く
「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。その御名は尊く、その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます。主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません、わたしたちの先祖におっしゃったとおり、アブラハムとその子孫に対してとこしえに。」(ルカ1:47-55)
 主は「身分の低い者を高く上げる」と言われている通り、この地上で自分を低くしてイエスに仕えた聖母マリアは、死後、天の高みにまで挙げられました。今日は、そのことを祝う聖母被昇天の祭日です。この出来事は、謙虚な心で生きる人、自分を一番低いところにおいて、すべての人に奉仕する人こそが天国に一番近いことを教えているように思います。 わたしの身の回りにいる人物で、謙遜さの極みを生きている人と言えば、やはり協力司祭のオレギ神父様でしょう。先日も、こんなことがありました。オレギ神父様が「サッカー宣教師」として日本経済新聞で紹介されたと聞いて、わたしは大騒ぎで新聞を取り寄せ、「すごいですね」と言いながらオレギ神父様にプレゼントしました。ところが、オレギ神父様は「いや、わたしはいらない」とにべもなく断られたのです。そのような地上の名誉は、自分には必要がないということなのでしょう。教え子が自分のことを覚えていたということについては喜んでおられましたが、新聞に載ったこと自体はどうでもいい。そんな風でした。
 一事が万事ということがありますが、オレギ神父様はどんなときでも、人の上に立とうとすることがありません。人の上に立って相手を見下すということがまったくないのです。それはつまり、自分を一番低い所においているということでしょう。上からの目線で相手を裁くようなことも、もちろんありません。どんなときでも相手のよい所を見つけ出し、あらゆる違いを越えて相手をやさしく包み込んでゆく。それがオレギ神父様のやり方です。
 当然、オレギ神父様の周りにはいつも平和があります。ご自身が、何かについて腹を立てて感情的になっているところを、わたしは見たことがありません。どんなことがあっても、謙虚な心で自分を省み、相手を、あるいは状況を受け入れてゆくので、オレギ神父様の心にはいつも平和があるのです。そのようなオレギ神父様の周りにいると、わたしたちの心にも平和が広がってゆきます。あるがままの自分を受け入れてくれる人、心ない批判を受ける可能性がまったくない人と話すとき、わたしたちの心は喜びと安らぎで満たされてゆくのです。「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)とイエスご自身が言っておられますが、オレギ神父様のように自分を低くし、謙虚な心で生きる人こそ、まさにこの地上に平和を実現する人であり、神の子と呼ばれるにふさわしいのです。
 聖母マリアもこのような方であったことは間違いないと思います。謙虚な心で、相手をあるがままに受け容れられる人。自分の思ったこと通りにことが運ばなかったとしても、「すべてを心に納めて思い巡らす」人。それが聖母マリアなのです。当然、聖母の周りにはいつでも平和がありました。自分の身を低くして平和を実現した聖母を、神は高く天にまで挙げられたのです。わたしたちも、聖母のように、またオレギ神父様のように生きられるよう祈りましょう。