フォト・ライブラリー(597)鹿児島・屋久島巡礼2019

鹿児島・屋久島巡礼2019

1549年、日本に最初に上陸した宣教師、フランシスコ・ザビエルと、1708年、禁教下の日本に最後に上陸した宣教師、ジョバンニ・バチスタ・シドッチの足跡を辿って、それぞれの上陸地、鹿児島と屋久島を訪れました。

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夜明けの桜島。ザビエル一行は、1549年8月15日。桜島を望む錦江湾の船着き場に上陸しました。

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ザビエル上陸の地に建てられた記念碑。

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美しいステンドグラスが印象的な、鹿児島ザビエル教会。

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教会の一角には、ザビエルの骨も顕示されています。

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 パイプオルガンの音色が、とてもよく響く構造です。

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鹿児島港から高速船トッピーに乗船。種子島を経由し、約2時間半で屋久島に到着します。

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雲をまとった屋久島の山。最高峰の宮之浦岳は、1936m。九州地方で最も高い山です。九州地方の高い山ベスト10のうち、1位から8位はすべて屋久島にあります。

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シドッチ神父上陸の地に建てられた、カトリック屋久島教会。

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シドッチ神父は、恋泊と呼ばれるこの海岸に上陸したそうです。

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雨で増水した大川の滝。普段は左側1本だけだそうです。

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1ヶ月のうち35日は雨と言われる屋久島。降った雨は、川を一気に下って海に流れ込みます。

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道でヤクザルと出会いました。ニホンザルよりも一回り小型です。

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世界遺産に指定された屋久島の森。西部林道という道が通っています。

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西部林道で出会ったヤクシカの親子。鹿も、本土より一回り小型です。

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こちらをじっと見ている雌のヤクシカ。

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屋久杉の生い茂る森を散策しました。

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樹齢1000年以上のものを屋久杉、それ以下のものを小杉と呼ぶそうです。

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苔の中から新しい木が芽を出していました。

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鬱蒼と生い茂る屋久杉の森。映画『もののけ姫』の森のモデルになったそうです。

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森の中を流れる川。清らかな水が森を育てます。

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倒木を苗床にして育つ若木たち。

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いつも雲や霧に包まれ、「雲霧林」に分類される屋久島の森。苔が育つには最適な環境です。

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ひときわ大きな千年杉。平安時代からここに生えていることになります。

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 「神宿る森」という呼び名がふさわしい屋久島の森。この森が、いつまでも守られるよう心から祈ります。

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バイブル・エッセイ(870)末席に着く

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末席に着く

安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」(ルカ14:1、7-11)

「誰でも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」とイエスは言います。このたとえでは、偉そうにしている人はかえって恥をかくということが語られていますが、イエスが一番言いたいのは、むしろ神様の目から見たときどうかだと思います。神様の目から見たとき、本当に偉いのは、自分のことよりも他者のことを先に考えられる人、他者のために自分を喜んで犠牲にできる人なのです。わたしたちが互いに競い合い、踏みつけ合うなら神様は悲しまれる。わたしたちが愛し合い、支え合うなら神様は喜ばれる。このキリスト教の大原則を、イエスは身近な場面を例に使って説明してくださったのです。
 どちらが宴席で上座に着くかという場面はあまりないかもしれませんが、同じような場面は身近なところにもたくさんあります。例えば、職場や学校、教会など会議の席で、自分の意見を何とか通し、相手の上に立とうとするような争いが起こることはあるでしょう。感情的になって相手の意見を否定し、理屈が通らないと相手の人格まで攻撃して、何とか自分が上に立とうとする。それは、まさに「上座」をめぐる争いに他ならないと思います。会議だけではありません。食卓での家族の会話や、友人たちとのおしゃべりの中でも、同じようなことは起こりえます。頭では謙遜、謙遜と思いながらも、わたしたちはつい、神様のこと、周りの人たちのことよりも自分のことを先に考え、我を張ってしまいがちなのです。
 人の上に立ちたい、自分の思いを通したいというような気持ちが湧き上がって来たときには、「だが、それを神様は望んでおられるだろうか」と考えるようにしたらよいでしょう。何より大切なのは、我を通すことではなく、神のみ旨を実現すること。「神の国」の平和を実現することによって、神様を喜ばせることだからです。たとえば、誰かから厳しい言葉で批判されると、つい感情的になって強い言葉で言い返したくなります。ですが、そんなことをすれば、争いは大きくなるばかり。相手との関係はますます悪くなるし、共同体の平和を損なうことで他の人たちにも大きな迷惑をかけることになるでしょう。神様はそんなことを望んでおられません。何か重大な問題が話し合われていて、明らかに神のみ旨に反する決定が行われようとしているような場合は別ですが、単に自分のプライドの問題ならば、「ああ、この人は上席に着きたいのだな。ならば、喜んで譲ってあげよう」と席を譲ってしまうのが一番です。
 上席を喜んで譲ることで神の愛を実現する人は、神様から喜ばれると同時に、周りの人たちからも愛されます。その場では相手が勝ったかのように見えるかもしれませんが、長い目で見たとき、本当の意味で勝ったのは譲った人の方なのです。神様を喜ばせるために、進んで末席につける人、そうすることで神の愛をこの地上に実現する人になれるよう祈りましょう。

バイブル・エッセイ(869)分裂をもたらすために

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分裂をもたらすために

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」(ルカ12:49-53)

「私が地上に平和をもたらすために来たと思うのか。むしろ分裂だ」とイエスは言います。イエスは、弱者の犠牲の上に成り立つ見せかけの平和を打ち壊し、すべての人が「神の子」として幸せに生きられる世界を実現するためにやって来たということでしょう。イエスと出会い、わたしたちの心に「神の愛」が宿るとき、地上には必ず分裂が生まれるのです。
 例えば、わたしたちはいま「平和」を神に感謝しています。ですが、この地球上を広く見渡せば、いまの時代が決して平和な時代でないことは明らかです。たくさんの人たちが戦火に巻き込まれ、難民となり、病や飢えで命を落としている。だが、自分たちとは関係がない。「平和」な国に生まれてよかった、というような意味での「平和」は、神の望む平和ではありません。むしろ、わたしたちは苦しんでいる人たちの叫びに耳を傾け、苦しみを生み出す悪に立ち向かう必要があります。悪に打ち勝ち、すべての人が幸せに暮らせる世界こそ、神が望む平和な世界なのです。
 もっと身近なことで、学校や職場、教会などで仲間が何らかのトラブルによって苦しんでいるとき、「自分とは関係がない。わたしの平和な日々をかき乱さないでほしい」と思うなら、そのような「平和」は神が望む平和ではありません。仲間を苦しませている悪と立ち向かい、それに打ち勝ってこそ、初めて真の平和が実現するのです。
「分裂」は、わたしたちの心の中にも起こります。 もし自分自身が家族や友人を裏切り、人を傷つけるような行為をしている場合には、「このくらいは大丈夫」という気持ちと、「こんなことはすべきでない」という気持ちの間に葛藤が生まれるのです。そのような心の分裂、葛藤に打ち勝ち、愛を貫いたときわたしたちの心に宿る安らぎ。それこそが真の平和なのです。
「自分さえよければ」あるいは「自分たちさえよければ」と考え、他の人たちの苦しみを無視することで成り立つ「平和」を壊し、真の平和を実現するためにイエス・キリストは来られました。イエスはわたしたちの心に「火」、すなわち愛の火を投じ、無関心や偽善を焼き払って、真の平和を実現するために来られたのです。わたしたちはいま、本当に平和な世界に生きているのか。自分の心は本当に平和なのか、あらためて見直したいと思います。

 

バイブル・エッセイ(868)ともし火をともす

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ともし火をともす

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:35-40)

 主人がいつ帰って来てもいいように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とイエスは言います。主人のことを忘れ、自分勝手なことを始める僕のようではいけない。どんなときでも、主人のことを第一に考える僕でありなさい、ということでしょう。どんな状況でも神を忘れず、愛の光を灯し続けることこそ私たち僕の使命なのです。
 旧約の時代に人々が神を忘れる一つのパターンは、困難の中で「自分たちは神から見捨てられた、神などいないのだ」と思い込んでしまうことでした。モーセに率いられて旅をする人々は、そのようにして神のみ旨に背き、神から国を委ねられた王たちは、敵を恐れて異教の神を崇めたのです。わたしたちも、同じようなことをしてしまいがちです。大きな困難に直面したとき、神を忘れ、自分の欲望に溺れたり、偶像にすがりついたりしてしまいがちなのです。
 不安や恐れの中で神を見失ったとき、わたしたちは自分の欲望を神にしてしまいがちです。「やけ食い」などはそのいい例でしょう。「もう駄目だ。限界だ」などと思ったとき、わたしたちは神に祈る代わりに、ついおいしいものに手を出してしまうのです。結果として、そのとき欲望は満たされますが、あとで深い後悔に襲われることになります。お腹を壊したり、健康を損ねたりして、自分で自分を苦しめることになるからです。「買い物で憂さ晴らし」というのも、きっと同じことでしょう。これも、後で後悔することが多いようです。必要以上のもの、身に余るものを買っても、使い道がないからです。このような行動の延長線上に、不安や恐れに駆り立てられて、富や名誉、権力を求める人生もあるのでしょう。いずれにしても、待っているのは身の破滅と深い後悔です。
 偉そうなことを言いながら、わたし自身も、つい「やけ食い」してしまうようなことがときどきあります。神様は人間の弱さをゆるしてくださる方ですから、きっとゆるしてくださるはずですが、できればそのような姿を見せて神様を悲しませないようにしたいものです。神様は留守であっても、いなくなってしまったわけではありません。どんなときでもわたしたちのことを思い、わたしたちの元に向かって急いでおられるのです。たとえ遅くなったとしても、神様は必ずわたしたちを助けに来てくださるのです。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙にありますが、神様はわたしたちを決して見捨てない、必ず困難から救い出してくださるという確信を持つこと。どんなときでも神を忘れないことこそ、信仰の要だといっていいでしょう。信仰は、難しい教義を学ぶことよりも、むしろ単純素朴に神の愛を信じること、神を待ち続けることの中にあるのです。どんなときでも神の愛を忘れず、愛の光を灯し続けられるように祈りましょう。

バイブル・エッセイ(867)神の前で豊かになる

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神の前で豊かになる

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-21)

 財産のことで思い悩む人にイエスは、自分が今晩、死ぬことも知らず、大きな倉に富を蓄えて喜ぶ金持ちのたとえを語り、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と諭しました。地上でどれほどの富をかき集めても、死によってすべて奪い取られる。富を積むなら、地上ではなく、神の前に積みなさいということでしょう。
 この話は、「なんという空しさ、すべては空しい。...人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」というコヘレトの嘆きにも通じるものです。自分のためにどれほど富や名誉、権力を手に入れたところで、いずれは死によってすべて奪われてしまう。ならば、自分の人生にはいったいどんな意味があるのかとコヘレトは嘆くのです。
 コヘレトの嘆きは、よく分かるような気がします。わたし自身、仕事で疲れ切ったときなど、「なぜこんなに働かなければならないんだ。こんなことをして一体なんの役に立つのか」と嘆きたくなることがあるからです。そんなときわたしは、その日に出会ったたくさんの人たち、明日出会うたくさんの人たちの顔を思い浮かべることにしています。悲しみや苦しみに沈んだその人たちの顔が、少し明るくなったり、喜びで満たされたりした顔を思い浮かべるのです。そうすると、「いや、わたしがやっていることには確かに意味がある。また明日も頑張ろう」という気持ちが湧き上がってきます。
 自分のために富を積み、欲望を満たしたとしても、それだけでは決して人生に意味を見つけられません。なぜなら、富は死によって奪い去られるし、欲望はどこまでいっても完全に満たされることがないからです。死によっても奪われないもの、人生に意味を与え、心を満たしてくれるものがあるとすれば、それはきっと、誰かの役に立つことができたという実感でしょう。自分を差し出すことで誰かを苦しみから救うことができた、誰かを支えられたという実感は、死でさえ奪うことができません。その実感こそが、わたしたちの心を満たし、人生に意味を与えてくれるのです。「人生の真の喜びの秘訣は、他者への優しい心にあり、それが利己的な我執から人類を解放する」と昨日の説教の中でソーサ総会長がおっしゃいましたが、誰かを幸せにできたときに私たちの心に生まれる喜びこそが、わたしたちの人生に意味を与え、幸せをもたらしてくれると言っていいでしょう。
 神の前に豊かになるとは、そのような人生の意味の実感を、心に蓄えてゆくことだと考えたらいいと思います。誰かのために自分を差し出せば差し出すほど、誰かを愛すれば愛するほど、わたしたちの心は豊かになります。その豊かさは、死によっても決して奪われません。心に愛を蓄えるとき、わたしたちは同時に、天国にも富を積んでいるのです。地上に富に心を引かれず、ただ天に富を積むことだけを考えて生きられるよう、神に恵みを願いましょう。

バイブル・エッセイ(866)罪のゆるし

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罪のゆるし

 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が崇められますように。御国が来ますように。わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。わたしたちの罪を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」(ルカ11:1-4)

 イエスが弟子たちに、祈り方を教える場面が読まれました。イエス自身が教えた特別な祈りですから、幼稚園でもこのまま子どもたちに教えるのですが、ときどき「わたしたちの罪を赦してください」というのはおかしいのではないかという疑問の声が上がります。3歳や4歳の子どもが、罪を犯しているとは常識的にいって考えられないからです。
 ここで罪というのは、「犯罪」というような大きなことではなく、わたしたちの心の中にあって、わたしたちと神を隔てるもの。神を悲しませるもの、と考えたらよいでしょう。人を傷つけたり、自分自身を傷つけたりするようなこと。「互いに愛し合いなさい」という神の思いを踏みにじるような思い。それが罪なのです。わたしたちは誰も、心の中で「そんなことはしてはいけない」と分かっています。そんなことをすれば、相手がかわいそうだし、自分自身の心も痛むからです。それにも拘らずついやってしまう。それが罪なのです。
 そう考えれば、幼稚園の子どもでも、心の中に罪か入り込む可能性はあるでしょう。よくないことだと自分でも分かっているのに、ついやってしまう。相手や神さまを思う心を、わがままな心が押しのけてしまう。そんなことは、子どもから大人まで、誰にも起こりうることなのです。
 生まれながらに罪深いわたしたちですが、悔い改めて祈るとき、神は必ずゆるしてくださいます。アブラハムが、ソドムの町を滅ぼさないよう神に願った話の中で、神は最後に、正しい人がたとえ十人でも「その十人のためにわたしは滅ぼさない」と言われました。これは、わたしたちの心の中にある正しい思いと置き換えて考えてもいいでしょう。たとえ99%が罪に覆われていたとしても、わたしたちの心に、ほんの1%でも、よいことだけを行いたい。神を悲しませたくないという思いが残っているなら、神はわたしたちを必ずゆるしてくださるのです。「求めなさい。そうすれば、与えられる」とイエスは言いますが、わたしたちが諦めずにゆるしを願い続ける限り、神は必ずその願いを聞き入れてくださるのです。
「主の祈り」は「わたしたちの罪を赦してください」と願った後、「わたしたちも自分に負い目のある人を皆赦します」と続きます。これは、ある意味で当然の流れでしょう。自分がどれだけ弱く、罪深いかを自覚するとき、わたしたちは人を責めることができなくなるのです。神の前で自分の弱さ、罪深さを認めながら、他の人を厳しく責める人がいるならば、その人はまだわかっていない。心の底から反省はしていないということになるでしょう。ゆるしを願って祈る人は、他の人たちをゆるすことを心に固く誓う人でもあるのです。
 罪、罪と言ってきましたが、そのことばかり考えて暗くなれということではありません。むしろ、罪のゆるしを信じるとき、わたしたちの顔は喜びに輝くのです。「主の祈り」は、「父よ」という呼びかけから始まります。父なる神は、何があっても子であるわたしたちを見捨てない方、どんな罪でもゆるしてくださる方。そのことを信じましょう。

バイブル・エッセイ(865)それぞれの使命

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それぞれの使命

 イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 イエスをもてなすために大忙しのマルタが、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」とイエスに苦情を言っている場面が読まれました。このような苦情は、わたしたちの日常生活の中でもよく聞かれます。忙しいとき、わたしたちはつい「何でわたしばかりこんなに忙しいのですか」と苦情を言ってしまいがちなのです。
 妹に対するマルタの苦情は、ちょうど「放蕩息子のたとえ話」の兄の苦情と重なっています。放蕩息子の兄は、「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と父である神に苦情を言いました。自分はこんなに働いているのに、なぜ弟をかわいがるのかということです。この話を聞いて、兄に共感する人は多いでしょう。働いているわたしたちが報われるのが当然で、怠け者が報われるのはおかしいと、つい考えてしまうのです。
 ですが、兄は一つ大切なことを忘れています。それは、父のもとで衣食住に困らず、やりがいのある使命を与えられて働くことができる。そのこと自体が恵みだということです。弟は、どん底の苦労の末にそのことに気づき、父のもとに帰ってきました。再び父のもとに戻れたことを、涙を流して喜んでいるのです。父のもとで働けること自体が大きな恵みである。幸せは、平凡な日々の暮らしの中にこそある。兄がもしそのことに気づいていれば、弟についてこれほど苦情を言うことはなかったでしょう
 わたし自身も、同じような苦情を言ってしまうことがよくあります。幼稚園や刑務所、教会の仕事、あちこちでの研修会、講演会などが立て込んで仕事に忙殺され、疲れ切っているときなど、「なぜ、わたしばかりこんなに働かなければならないのですか」と、ついつぶやいてしまうのです。ですが、よく考えてみれば、一つひとつの仕事はとてもやりがいのあるものです。子どもたちの喜ぶ顔、受刑者たちの真剣な表情、聴衆の笑顔を思い浮かべれば、また頑張ろうという気持ちが湧き上がってきます。神様はわたしに、こんなに素晴らしい使命を与えてくださったと思い、感謝できるようになるのです。
 イエスは、自分の言葉に耳を傾けたマリアが優れており、忙しく働いていたマルタが劣っていると言っているわけではありません。マルタにはマルタの使命があり、マリアにはマリアの使命がある。大切なのは、その使命を喜んで果たすことだ。イエスはマルタに、そのことを思い出させたかったのでしょう。自分の使命を感謝して受け取り、その使命を精一杯に果たす。そのような日々の中にこそ、わたしたちの本当の幸せがあるのです。忙しすぎて苦情を言いたくなったときには、自分には自分の使命があるということを思い出し、感謝してその使命を受け取りたいと思います。