バイブル・エッセイ(865)それぞれの使命

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それぞれの使命

 イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:38-42)

 イエスをもてなすために大忙しのマルタが、「わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか」とイエスに苦情を言っている場面が読まれました。このような苦情は、わたしたちの日常生活の中でもよく聞かれます。忙しいとき、わたしたちはつい「何でわたしばかりこんなに忙しいのですか」と苦情を言ってしまいがちなのです。
 妹に対するマルタの苦情は、ちょうど「放蕩息子のたとえ話」の兄の苦情と重なっています。放蕩息子の兄は、「わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」と父である神に苦情を言いました。自分はこんなに働いているのに、なぜ弟をかわいがるのかということです。この話を聞いて、兄に共感する人は多いでしょう。働いているわたしたちが報われるのが当然で、怠け者が報われるのはおかしいと、つい考えてしまうのです。
 ですが、兄は一つ大切なことを忘れています。それは、父のもとで衣食住に困らず、やりがいのある使命を与えられて働くことができる。そのこと自体が恵みだということです。弟は、どん底の苦労の末にそのことに気づき、父のもとに帰ってきました。再び父のもとに戻れたことを、涙を流して喜んでいるのです。父のもとで働けること自体が大きな恵みである。幸せは、平凡な日々の暮らしの中にこそある。兄がもしそのことに気づいていれば、弟についてこれほど苦情を言うことはなかったでしょう
 わたし自身も、同じような苦情を言ってしまうことがよくあります。幼稚園や刑務所、教会の仕事、あちこちでの研修会、講演会などが立て込んで仕事に忙殺され、疲れ切っているときなど、「なぜ、わたしばかりこんなに働かなければならないのですか」と、ついつぶやいてしまうのです。ですが、よく考えてみれば、一つひとつの仕事はとてもやりがいのあるものです。子どもたちの喜ぶ顔、受刑者たちの真剣な表情、聴衆の笑顔を思い浮かべれば、また頑張ろうという気持ちが湧き上がってきます。神様はわたしに、こんなに素晴らしい使命を与えてくださったと思い、感謝できるようになるのです。
 イエスは、自分の言葉に耳を傾けたマリアが優れており、忙しく働いていたマルタが劣っていると言っているわけではありません。マルタにはマルタの使命があり、マリアにはマリアの使命がある。大切なのは、その使命を喜んで果たすことだ。イエスはマルタに、そのことを思い出させたかったのでしょう。自分の使命を感謝して受け取り、その使命を精一杯に果たす。そのような日々の中にこそ、わたしたちの本当の幸せがあるのです。忙しすぎて苦情を言いたくなったときには、自分には自分の使命があるということを思い出し、感謝してその使命を受け取りたいと思います。