バイブル・エッセイ(868)ともし火をともす

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ともし火をともす

「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(ルカ12:35-40)

 主人がいつ帰って来てもいいように、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」とイエスは言います。主人のことを忘れ、自分勝手なことを始める僕のようではいけない。どんなときでも、主人のことを第一に考える僕でありなさい、ということでしょう。どんな状況でも神を忘れず、愛の光を灯し続けることこそ私たち僕の使命なのです。
 旧約の時代に人々が神を忘れる一つのパターンは、困難の中で「自分たちは神から見捨てられた、神などいないのだ」と思い込んでしまうことでした。モーセに率いられて旅をする人々は、そのようにして神のみ旨に背き、神から国を委ねられた王たちは、敵を恐れて異教の神を崇めたのです。わたしたちも、同じようなことをしてしまいがちです。大きな困難に直面したとき、神を忘れ、自分の欲望に溺れたり、偶像にすがりついたりしてしまいがちなのです。
 不安や恐れの中で神を見失ったとき、わたしたちは自分の欲望を神にしてしまいがちです。「やけ食い」などはそのいい例でしょう。「もう駄目だ。限界だ」などと思ったとき、わたしたちは神に祈る代わりに、ついおいしいものに手を出してしまうのです。結果として、そのとき欲望は満たされますが、あとで深い後悔に襲われることになります。お腹を壊したり、健康を損ねたりして、自分で自分を苦しめることになるからです。「買い物で憂さ晴らし」というのも、きっと同じことでしょう。これも、後で後悔することが多いようです。必要以上のもの、身に余るものを買っても、使い道がないからです。このような行動の延長線上に、不安や恐れに駆り立てられて、富や名誉、権力を求める人生もあるのでしょう。いずれにしても、待っているのは身の破滅と深い後悔です。
 偉そうなことを言いながら、わたし自身も、つい「やけ食い」してしまうようなことがときどきあります。神様は人間の弱さをゆるしてくださる方ですから、きっとゆるしてくださるはずですが、できればそのような姿を見せて神様を悲しませないようにしたいものです。神様は留守であっても、いなくなってしまったわけではありません。どんなときでもわたしたちのことを思い、わたしたちの元に向かって急いでおられるのです。たとえ遅くなったとしても、神様は必ずわたしたちを助けに来てくださるのです。
「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」とヘブライ人への手紙にありますが、神様はわたしたちを決して見捨てない、必ず困難から救い出してくださるという確信を持つこと。どんなときでも神を忘れないことこそ、信仰の要だといっていいでしょう。信仰は、難しい教義を学ぶことよりも、むしろ単純素朴に神の愛を信じること、神を待ち続けることの中にあるのです。どんなときでも神の愛を忘れず、愛の光を灯し続けられるように祈りましょう。