バイブル・エッセイ(867)神の前で豊かになる

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神の前で豊かになる

 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:13-21)

 財産のことで思い悩む人にイエスは、自分が今晩、死ぬことも知らず、大きな倉に富を蓄えて喜ぶ金持ちのたとえを語り、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と諭しました。地上でどれほどの富をかき集めても、死によってすべて奪い取られる。富を積むなら、地上ではなく、神の前に積みなさいということでしょう。
 この話は、「なんという空しさ、すべては空しい。...人間が太陽の下で心の苦しみに耐え、労苦してみても何になろう」というコヘレトの嘆きにも通じるものです。自分のためにどれほど富や名誉、権力を手に入れたところで、いずれは死によってすべて奪われてしまう。ならば、自分の人生にはいったいどんな意味があるのかとコヘレトは嘆くのです。
 コヘレトの嘆きは、よく分かるような気がします。わたし自身、仕事で疲れ切ったときなど、「なぜこんなに働かなければならないんだ。こんなことをして一体なんの役に立つのか」と嘆きたくなることがあるからです。そんなときわたしは、その日に出会ったたくさんの人たち、明日出会うたくさんの人たちの顔を思い浮かべることにしています。悲しみや苦しみに沈んだその人たちの顔が、少し明るくなったり、喜びで満たされたりした顔を思い浮かべるのです。そうすると、「いや、わたしがやっていることには確かに意味がある。また明日も頑張ろう」という気持ちが湧き上がってきます。
 自分のために富を積み、欲望を満たしたとしても、それだけでは決して人生に意味を見つけられません。なぜなら、富は死によって奪い去られるし、欲望はどこまでいっても完全に満たされることがないからです。死によっても奪われないもの、人生に意味を与え、心を満たしてくれるものがあるとすれば、それはきっと、誰かの役に立つことができたという実感でしょう。自分を差し出すことで誰かを苦しみから救うことができた、誰かを支えられたという実感は、死でさえ奪うことができません。その実感こそが、わたしたちの心を満たし、人生に意味を与えてくれるのです。「人生の真の喜びの秘訣は、他者への優しい心にあり、それが利己的な我執から人類を解放する」と昨日の説教の中でソーサ総会長がおっしゃいましたが、誰かを幸せにできたときに私たちの心に生まれる喜びこそが、わたしたちの人生に意味を与え、幸せをもたらしてくれると言っていいでしょう。
 神の前に豊かになるとは、そのような人生の意味の実感を、心に蓄えてゆくことだと考えたらいいと思います。誰かのために自分を差し出せば差し出すほど、誰かを愛すれば愛するほど、わたしたちの心は豊かになります。その豊かさは、死によっても決して奪われません。心に愛を蓄えるとき、わたしたちは同時に、天国にも富を積んでいるのです。地上に富に心を引かれず、ただ天に富を積むことだけを考えて生きられるよう、神に恵みを願いましょう。