バイブル・エッセイ(975)愛の奇跡

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愛の奇跡

 エスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。(マルコ6:1-6)

 故郷に帰ったイエスでしたが、そこでは、「ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた」とマルコ福音書は記しています。嵐さえ静めるイエスですから、相手が誰でも奇跡を行うことはできそうですが、「奇跡を行うことができなかった」。このことは、イエスの奇跡がどんなものであるかを示しています。イエスが人に対して行う奇跡は、相手に無理やりおしつける奇跡ではなく、相手がイエスに対して心を開き、イエスを信じたときだけに生まれる奇跡。イエスと相手との間に信頼の絆が結ばれ、相手がイエスの愛を受け入れたときにだけ生まれる奇跡。すなわち、エスの愛、神様の愛が引きおこす奇跡だったのです。

 思い込みを捨てて相手に心を開き、相手とのあいだに信頼の絆が結ばれたとき奇跡が起こる。それは、わたしたちの日常生活の中でも同じでしょう。例えば、頑固一徹で、何か言い出したら梃子でも動かない高齢者がいたとしましょう。そのような人に対して、「ああ、また始まった。どうせ何を言っても無駄だ」と思って最初から説得を諦めれば、事態がよくなることはないでしょう。しかし、相手を信頼し、腹を割って説明すれば、意外と納得して話を聞いてくれることがあります。「この人なら、必ずわかってくれる」とわたしたちが相手を信頼して話し、「この人は、本当にわたしのことを思っていってくれている」と相手が思って心を開いてくれるとき、わたしたちのあいだに生まれる確かな愛。その愛が、ありえないとさえ思われた変化を引き起こすのです。

 パウロが、「わたしは弱いときにこそ強い」と言うのも、この愛の奇跡と関係しているように思います。お金や自分の能力などに頼って自分は強いと思い込んでいるとき、わたしたちは神様に対して心を閉ざしています。神様のことを、すっかり忘れてしまっているのです。しかし、窮地に陥ったとき、自分の弱さを思い知らされたとき、わたしたちは神様のことを思い出します。まさに、「困ったときの神頼み」で、自分の弱さの中でこそ、わたしたちは神に心を向け、神に心を開くのです。わたしたちが心を開くとき、神様の無限の愛がわたしたちの心に流れ込みます。そのとき、わたしたちの心に生まれる、「こんなわたしでも、神様はこれほどまでに愛してくださる」という実感。その愛の実感こそが、すべてを可能にする力となるのです。人間の力には限界がありますが、神様にできないことはありません。まさに、「わたしは弱いときにこそ強い」のです。

 何より大切なのは、神様を信じ、相手を信じることです。信じるときわたしたちの心に流れ込む神様の愛、信じるときわたしたちと相手との間に生まれる愛の絆、それこそがすべてを可能にする力だからです。もし信じるなら、わたしたちの行く先々で、教会、職場、学校、そして家庭で、次々と奇跡が起こるでしょう。信じる力の恵みを願って、ともにお祈りいたしましょう。

バイブル・エッセイ975『愛の奇跡』(聖書朗読とミサ説教:片柳弘史神父) - YouTube

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