バイブル・エッセー(994)愛の報い

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愛の報い

 イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(マルコ12:41-44)

 貧しいやもめが銅貨2枚を賽銭箱に投げ入れたのを見て、イエスは、「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」と言いました。このやもめが、思い切って生活費のすべてを投げ入れたことを知っておられたからです。このわずかなお金に込められた彼女の大きな愛。神は、その愛を、どんな巨額の献金よりも喜ばれる。イエスは、人々にそのことを知らせたかったのだと思います。

 ある高齢の神父さんから、こんな話を聞いたことがあります。第二次世界大戦後の食料不足の時期に、その神父さんが田舎まで食料の買い出しに行ったときのことです。その日はとても運がよく、一日中歩いてなんとか十分な食料を手に入れ、帰りの満員列車の中でも席を見つけられました。帰り道も4時間はかかりますから、これは恵まれたことです。しかし、神父さんは近くに疲れた顔をした女性が立ち、苦しそうにしているのに気づきました。自分もへとへとに疲れているし、すさまじい混雑だったので、気づかないふりをしようかとも思ったそうですが、神父さんはついに立ち上がり、その女性に席を譲ったそうです。女性は別に感謝もせず、「ずいぶんお人好しだな」という顔で神父さんを見ただけでしたが、そのとき、神父さんの心はどこからともなく湧き上がる大きな喜びに満たされたそうです。その喜びは帰りの道中ずっと続いただけでなく、その日のことを思い出すたびに湧き上がってきて、生きる力を与えてくれる。神父さんは、うれしそうにそう言っておられました。

 席を譲ったことによって、神父さんは、どんなお金を払っても買えないくらいすばらしいお恵みを、神さまからいただいたということでしょう。極限状態の中で誰かのために自分を差し出した神父さんの愛を、神さまはしっかり見つけて受け取り、その愛に大きな恵みで報いてくださったのです。旧約聖書の中に、貧しい女性が、自分が持っているわずかな小麦粉と油をエリヤに差し出したところ、どんなに使っても「壺の粉は尽きることなく、瓶の油もなくならなかった」という奇跡が記されていますが(列王記上17:10-16)、この神父さんに起こった出来事はこれとよく似ています。神さまのために、自分の差し出せるものをすべて差し出したとき、神父さんの心にいつまでも喜びが溢れだす、真実の愛が刻まれた。それこそ、神さまがあたえてくださった何よりの報いだったということでしょう。

 持っているすべてのものを惜しみなく差し出すとき、神さまはわたしたちの捧げものを喜び、大きな報いを与えてくださいます。困っている誰かのために自分を差し出すことができた、その人のために役立つことができた、ぎりぎりの状態にあっても「神の子」らしく振る舞うことができたという体験は、真実の愛の体験としてわたしたちの心に深く刻まれ、わたしたちの一生の宝となるです。聖書に登場する貧しい女性たちや、席を譲った神父さんの模範にならい、わたしたちも、惜しみなく自分を差し出すことができるよう祈りましょう。

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