バイブル・エッセイ(1060)喜びの知らせ

喜びの知らせ

 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:1-16)

「どんな状況に置かれていても、あなたは限りなく大切な存在。神さまはあなたを愛している」、イエス・キリストはそのことを伝えるためにこの世界にお生まれになりました。イエス誕生の物語は、全体として、はっきりとそのことをわたしたちに語っています。この物語を、もう一度、よく味わってみましょう。

 「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」と天使は羊飼いたちに告げました。羊飼いたちは大急ぎでその救い主に会いに行きますが、「そんなすごい人に、自分たちが本当に会えるのだろうか」という不安もきっとあったことでしょう。なぜなら、羊飼いたちは、一年中、羊たちの世話をしながら野宿をして暮らしていたので、服は汚れ、体には羊たちのにおいがしみついていたからです。

 しかし、それは取り越し苦労でした。救い主は、家畜小屋の飼い葉桶に寝かされていたからです。「これなら、わたしたちでも会える。この方は、本当にわたしたちのために生まれてこられた救い主なんだ。神さまは、わたしたちのことを、これほどまでに愛してくださっているんだ」、飼い葉桶に寝かされた幼子イエスの顔を見ながら、羊飼いたちはそう思ったことでしょう。イエスが飼い葉桶に寝かされていなかったら、もし高級な宿屋にとまっていたら、羊飼いたちはイエスに会えず、神さまの愛にも出会えなかったかもしれません。イエスが飼い葉桶に寝かされていたこと自体が、羊飼いたちへの神さまの愛の現れだったのです。

 イエスの誕生の物語には端々まで意味があり、全体として、「どんな状況に置かれていても、あなたは限りなく大切な存在。神さまはあなたを愛している」というメッセージを語っています。三人の博士が東方からやってくるという話も、例外ではありません。この三人は、王さまだったともいわれていますから、学問がある人、財産や権力を持っている人の代表と考えてもいいでしょう。しかし、この三人は、学問にも、財産や権力にも満足することができませんでした。だからこそ、星に導かれ、本当の幸せを求めて命がけの旅に出たのです。長い旅路の果てに、彼らもイエスに出会うことができました。イエスは、無学な人、貧しい人だけでなく、学問や財産、権力を持っていても人生の道に迷い、幸せを求めて苦しんでいる人たちにとっても救い主だったのです。

 貧しい羊飼いたちも、三人の博士たちも、イエスの誕生を聞きつけて集まってきた村の人たちも、もちろんヨセフとマリアも、誰もが飼い葉桶の周りにひざまずき、イエスの誕生を祝いました。神さまの前にひざまずく謙虚さをもっている限り、誰もがこの祝いに参加することできるのです。「どんな状況に置かれていても、わたしたちは限りなく大切な存在。神さまはわたしたちを愛している」、その喜びを共にかみしめ、この聖なる夜を心からお祝いしましょう。

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こころの道しるべ(147)自分を知る

自分を知る

自分のことをよく知れば知るほど、
わたしたちは謙虚になってゆきます。
知れば知るほど、
自分がどれだけ
弱くて不完全か分かるからです。
傲慢な態度で
自分が優れていることを誇る人は、
実はまだ、自分自身のことさえ
よく分かっていなのです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1059)神の力によって

神の力によって

 イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れた。(マタイ1:18-24)

 天使がヨセフに現れて、「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」と告げる場面が読まれました。イザヤ書に記された、「おとめが身ごもって男の子を産む」という言葉が、マリアにおいて実現するというのです。この出来事は、いったい何を意味しているのでしょう。なぜ、イエスが誕生するために「おとめが身ごもる」必要があったのでしょうか。

 一つの理由は、イエスが「神の子」であることを人々にはっきりと示すことでしょう。神の意思により、神の力で身ごもった子どもだから「神の子」に間違いないということです。わたしはさらに、もう一つ深い理由があるような気がします。それは、人間の力によらずに子どもを誕生させることによって、子どもは人間の力で生まれると思い込んでいるわたしたちに、子どもは人間の力だけで生まれるものではない。人間の誕生には神の力が働いているということを、はっきり目に見える形で示すということです。

 よく子どものことを「天からの授かりもの」といいますが、子どもは確かに、人間の力だけで生まれるものではないのです。イエスに限らず、すべての子どもの誕生には、「なぜわたしに、これほど尊い命が宿ったのだろう」と思わずにいられないくらい、人間の理解を越えた、神秘的な力が働いているのです。その意味で、わたしたちは、誰もが聖霊の力によって宿った「神の子」だといってよいでしょう。おとめであるマリアが、結婚前に子どもを宿したという事実は、このことをわたしたちにはっきりと教えてくれます。どんな命も、聖霊によって宿ったかけがえのない命、「天からの授かりもの」なのです。

 天使は続けて、ヨセフに、「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」といいました。生まれてくる子どもには、人々を救う使命が与えられているということです。この言葉にも、わたしたち一人ひとりに当てはまる、深い真理が隠されていると思います。それは、わたしたちは誰もが、神さまから、大切な使命を与えられてこの世界に生まれてくるということです。イエスには人々を救う使命が与えられ、イエスによって救われたわたしたちには、イエスを手伝う使命が与えられているのです。手伝い方は、人によって違うでしょう。ある人は、高齢者を介護することによって、ある人は、子どもたちの世話をすることによって、ある人は、みんなのために美しい音楽を演奏することによって、イエスの愛を人々のもとに運ぶ手伝いをするのです。目立つ役割も、目立たない役割もあるかもしれません。しかし、人間の目にどう映るかなど、あまり意味がないのです。イエスの使命を助けるものである限り、その人の使命は、神さまの目にどれも限りなく尊いのです。

 ヨセフに天使が語りかけるこの場面は、わたしたちに、人間の命は神によって生まれてくること。わたしたち一人ひとりに、大切な使命が与えられていることを思い起こさせてくれます。その使命を果たし、神さまから頂いた命の恵みを最大限に活かすことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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こころの道しるべ(146)自分自身になる

自分自身になる

人と同じことができないからと言って、
自分を責める必要はありません。
人と同じことではなく、
自分がすべきことをすればいいのです。
大切なのは、
人と同じものになることではなく、
自分自身になることです。

『こころの深呼吸~気づきと癒やしの言葉366』(教文館刊)

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バイブル・エッセイ(1058)救いの証

救いの証

 ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」イエスはお答えになった。「行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。」ヨハネの弟子たちが帰ると、イエスは群衆にヨハネについて話し始められた。「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか。風にそよぐ葦か。では、何を見に行ったのか。しなやかな服を着た人か。しなやかな服を着た人なら王宮にいる。では、何を見に行ったのか。預言者か。そうだ。言っておく。預言者以上の者である。『見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう』と書いてあるのは、この人のことだ。はっきり言っておく。およそ女から生まれた者のうち、洗礼者ヨハネより偉大な者は現れなかった。しかし、天の国で最も小さな者でも、彼よりは偉大である。」(マタイ11:2-11)

 「来るべき方は、あなたでしょうか」という問いに対してイエスは、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」と答えました。「社会の片隅に追いやられた貧しい人々が、神の愛に触れて生きる力を取り戻し、喜びの歌を歌っている。これが救いでなくてなんだろうか」とイエスは言いたかったのでしょう。イエスこそ、救いをもたらす者であり、「来るべき方」すなわちメシアなのです。

 「来るべき方は、あなたでしょうか」という問いは、いま、わたしたちの教会にも向けられている問いだと思います。教会はいま、「さまざまな宗教が乱立する現代社会にあって、あなたたちの教会は果たして本物なのか、救いをもたらす真の宗教なのか」と多くの人から問われているのです。わたしたちは果たして、イエスのように力強く、「貧しい人は福音を知らされている。神の愛に触れて、喜びに満たされている」と答えることができるでしょうか。そのようなことが、わたしたちの教会で実際に起こっているでしょうか。

 まず、わたしたち自身が喜びに満たされていることが必要です。しょぼくれた顔をした人が、「わたしたちは救われました。喜びにあふれています」と言ったところで、まったく説得力がないからです。「こんなわたしにまで、神さまは豊かな恵み、豊かな出会いを与えてくださった。生きる力と生きる意味を与えてくださった」ということ、つまり「神さまはわたしを救ってくださった」ということを、わたしたちは心の底から実感しているでしょうか。こんなに心の貧しいわたしにさえ福音が告げ知らされたと、わたしたちは自信をもっていえるでしょうか。

 次に、わたしたちが、社会の中で片隅に追いやられている人たちに福音を伝えているかどうかが問われます。イエスのように貧しい人たちの中にでかけてゆき、その人たちに真剣に向かい合うこと、その人たちにとことんつき合うことによって、「あなたはかげかえのない命。神さまの子ども。わたしはあなたと出会えて本当にうれしい」というメッセージを伝えているかどうかが問われるのです。相手は、自分の家族であっても構わないと思います。心にさびしさ、虚しさを感じて苦しんでいる人に、わたしたちが神さまの愛を届けていること。届けようと懸命に努力し、祈っていること。それこそ、わたしたちが本物の宗教、救いをもたらす宗教であることの何よりの証なのです。

 「いや、わたしたちこそ本物の宗教なのです。わたしたちのリーダーこそメシアなのです」などと口先でいくらいっても仕方がないということを、イエスはよく知っていました。だからこそ、「あなたたちが見聞きしたことをそのまま洗礼者ヨハネに伝えなさい」と、洗礼者ヨハネの弟子たちにいったのです。わたしたちも、救いがここにあるということを、わたしたちの生き方、教会のあり方そのものによって証することができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

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こころの道しるべ(145)まんざらでもない

まんざらでもない

思いがけない親切に出会ったとき、
わたしたちは
「世の中まんざらでもないな」と思います。
この世界に価値を与えるのは、
人と人との間に生まれる愛。
世界がわたしたちに価値を与えるのではなく、
わたしたちが世界に価値を与えるのです。

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バイブル・エッセイ(1057)価値のあるもの

価値のあるもの

 そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。
ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる。」(マタイ3:1-12)

 洗礼を受けにきたファリサイ派やサドカイ派の人々を、洗礼者ヨハネは「蝮の子らよ、悔い改めにふさわしい実を結べ」と厳しい言葉で戒めました。口先だけで回心しても何の意味もない。行動が伴ってこそ、神の国の救いに与ることができるということでしょう。

「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」という洗礼者ヨハネの言葉から、ファリサイ派やサドカイ派の人たちの行動の何が問題だったかがわかります。彼らは、自分たちこそ「アブラハムの子」であり、神から愛された特別な存在だといって、貧しい人々や異邦人たちを見下していたのです。そんな彼らに、洗礼者ヨハネは、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」と言いました。「たとえアブラハムの子だったとしても、そんなことは意味がない。神の前で喜ばれるのは、悔い改めにふさわしい実、互いに尊敬しあい、受け入れあう愛の実を結ぶ人たちなのだ」ということです。

 ファリサイ派やサドカイ派の人たちに限らず、わたしたちはつい、生まれがよいから、何かを持っているからといった理由で自分が優れたものであると思い込み、人を見下してしまいがちです。しかし、実際には、自分は家柄がよいから優れている、財産があるから優れている、社会的な地位があるから優れているなどと考えて相手を見下すとき、わたしたちは神さまを悲しませるもの、愛から最も遠ざかっているものになってしまうのです。相手も自分も、同じようにかけがえのない神の子であることを忘れず、相手に心を開くとき。相手の苦しみを自分の苦しみのように感じて、助けの手を差し伸べるときにこそ、わたしたちは神さまの前で本当に価値のあるものになります。神さまの前で価値があるのは、わたしたち人間のあいだに生まれる愛だけなのです。

 すべての違いを乗り越え、互いを受け入れあって共に生きる理想を、イザヤ書は「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く」と表現しています。あらゆる違いを乗り越え、互いに尊敬し合い、共に生きてく世界を実現することこそ天国の理想であり、そのような交わりを実現したときにこそ、わたしたちはこの地上で天国の喜びを味わうことができるのです。それこそが、人類の救いなのだといってよいでしょう。

 自分の家柄や財産、社会的な地位などを誇り、相手を見下す人に対して、洗礼者ヨハネは、「そんなものは石からでも造り出すことができる」と言うに違いありません。家柄や財産、地位などは、石からでも造り出すことができます。神さまの前で価値があるのは、ただ人間の心から生まれてくる愛だけなのです。自分を誇って相手を見下すことがない者、互いに愛し合う者、神の子として本当にふさわしい者となって救いの喜びを味わうことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

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