こころの道しるべ(212)大切な人のために

大切な人のために

つらくて挫けそうなときでも、
大切な誰かの顔を思い浮かべると、
心の底から力が湧き上がってきます。
「あの人を守りたい」
「あの人の喜ぶ顔を見たい」
その思いが、あらゆる困難を乗り越える力を
わたしたちに与えてくれるのです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ212「大切な人のために」A3.JPG - Google ドライブ

ハガキ 道しるべ212「大切な人のために」ハガキ.JPG - Google ドライブ

バイブル・エッセイ(1139)神のいつくしみ

神のいつくしみ

 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」このほかにも、イエスは弟子たちの前で、多くのしるしをなさったが、それはこの書物に書かれていない。これらのことが書かれたのは、あなたがたが、イエスは神の子メシアであると信じるためであり、また、信じてイエスの名により命を受けるためである。(ヨハネ19:20-31)

 復活したイエスは、弟子たちに聖霊を送り、「だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される」といって宣教に派遣しました。自分自身、神から罪をゆるされた者として、同じように罪の中で苦しんでいる人たちに神のゆるしを告げなさい。神の愛を、すべての人のもとに届けなさいということでしょう。
 「ゆるす」というと、ちょっと上から目線のようにも聞こえます。しかし、イエスはここで、弟子たちに人を裁く権威を与えたわけではありません。なぜなら、実際にゆるしてくださるのは神で、弟子たちの役割は、神のゆるしを告げることだけだからです。弟子たちは、神がどれだけいつくしみ深い方なのかよく知っています。神は、イエスを見捨てて逃げ出した自分たちでさえゆるしてくださる方。わたしたちの弱さを知りながら、それにもかかわらずわたしたちを愛してくださる方だということを、弟子たちは身をもって知っているのです。
 自分自身、ゆるされた罪人の一人として、神のいつくしみをまだ知らず、「自分なんかゆるされるはずがない。生きている意味がない」と思い込んで苦しんでいる人たちに、「いや、そんなことはありませんよ。神さまは、どんな罪でもゆるしてくださいます。何も心配する必要はありません」と告げること。神のゆるしを告げ、その人が安心して神のもとに立ち返り、神の愛の中で生きていけるようにすること。それが弟子たちに与えられた使命なのです。
 わたしたちにも、同じように、神のゆるし、神の愛を人々に告げる使命が与えられています。「こんな自分でも、神はゆるしてくださった。この神の愛を、同じように自分を責め、苦しんでいる人たちに伝えずにはいられない」、そのような思いに駆り立てられ、人々の元に出かけていくこと。それがわたしたちの使命なのです。
 しかし、残念ながら、わたしたちはときどき「こんな自分がゆるされるはずがない。わたしはダメな人間だ」という考え方に戻ってしまうことがあります。疑い深いトマスと同じで、目に見えない神の愛を、ときに疑ってしまうことがあるのです。そんなわたしたちのために、イエスは目に見える証拠を準備してくださいました。それが教会です。教会に行き、ミサに与ること、御聖体を頂くこと、信仰を共にする仲間と交わり、励ましあうことを通して、わたしたちは、「神はこんな自分でさえゆるし、大きな愛で包み込んでくださる」と実感することができるのです。「見ないのに信じる人は、幸いである」とはいいながら、見なければ信じられないわたしたち人間の弱さを知り、その弱さにそっと寄り添ってくださる方。それがイエスなのです。
 今日は「神のいつくしみの主日」ですが、神のいつくしみを人々に告げるためには、まず自分自身が神のいつくしみを実感する必要があります。目には見えない神の愛を、目に見える教会の交わりの中で実感し、神のゆるしを告げるために出かけていくことができるよう、心を合わせて祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

こころの道しるべ(211)幸せになる力

幸せになる力

幸せな人とは、
見つける力、驚く力、
感動を人と分かち合う力、
与えられた恵みに感謝する力を
持っている人のこと。
特別なものは必要ありません。
誰にでもあるそれらの力を磨くだけで、
わたしたちは幸せになれるのです。

『やさしさの贈り物~日々に寄り添う言葉366』(教文館刊)

※このカードはこちらからJPEGでダウンロードできます⇒

A3 道しるべ211「幸せになる力」2A3.JPG - Google ドライブ

ハガキ 道しるべ211「幸せになる力」2ハガキ.JPG - Google ドライブ

バイブル・エッセイ(1138)天国は心の中に

天国は心の中に

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)

 ヨハネ福音書の「空の墓」の場面では、イエスが葬られた墓の中に入っていくと、そこには亜麻布だけが置いてあった。しかも、顔を覆っていた布は離れたところに丸めてあったと、墓の中の様子が詳しく語られています。もし誰かがイエスの遺体を持ち去ったのなら、亜麻布ごと運ぶのが普通でしょう。まるでイエスが起き上がり、自分で布を外したかのようなその様子を見て、弟子たちは「見て、信じた」とヨハネ福音書は伝えています。そのただならぬ様子から、弟子たちはイエスが復活したこと。死者の世界にはいないことを悟ったのです。
 十字架上で死んだイエスは、天に上げられ、神の右の座に着いた。それがわたしたちの信仰です。わたしたちも、イエスと共に死ぬなら、天に上げられ、イエスと共に永遠の命を生きる。わたしたちはそう信じています。ですが、天国に行ってしまったら、先に亡くなって天国に行った人たちとは会えても、まだ地上で生きている人たちとはもう会えなくなるのではないかという心配があります。そのあたりは、いったいどうなっているのでしょうか。
 天国は、実はわたしたちの心の中にある。わたしたちの心は、一番深いところで天国とつながっている。わたしはそう考えています。亡くなって天国に行った人たちは、実は、わたしたちの心の中で生きている。そういってもよいでしょう。イエスは、わたしたちの心の奥深くに住んでおられます。それと一緒に、先に亡くなったわたしたちの家族や友人たちも、わたしたちの心の中で生きているのです。
 それは、わたしたちの実感だといってよいでしょう。亡くなった大切な人たちを思い出すとき、大好きだったおじいさんやおばあさんの手のあたたかさや、やさしくほほ笑みかけてくれた友だちの笑顔を思い出すとき、わたしたちは、まるでその人がまだ生きているかのようにはっきりと、その人たちの愛のぬくもりを感じることができるのです。「苦しくて仕方がありません。どうかわたしを守ってください」と語りかけると、その人たちが、「だいじょうぶ、わたしがいつも一緒にいるよ」と答えてくれる。ときには、その人がいつも座っていた椅子に、いまもその人が座っているように感じられる。そんな気がすることさえあります。亡くなった人たちは、わたしたちの心の中で、確かにいまも生きているのです。
 大切なのは、いつも心の中の天国とつながっていることだと思います。わたしたちは、日常生活の忙しさや思い煩いの中で、天国とのつながりを見失ってしまうことが多いのです。さまざまな心配事をいったん脇に置き、静かな心でイエスの愛を思い出す時間、亡くなった人たちのことを思い出す時間の中で、天国の扉は開きます。イエスの愛、亡くなった人たちの愛に感謝する祈りの中で、天国の扉は開くのです。心の中にある天国とのつながりをいつも持ち続けることができるように。天国の喜びの中で、イエスと、また亡くなった人たちと共に生きていくことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

バイブル・エッセイ(1137)石を転がす力

石を転がす力

 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」(マルコ16:1-7)

 マグダラのマリアや弟子たちがイエスの葬られた墓に行ってみると、墓は空だったという話は、イエスの復活の証としてすべての福音書で語られています。それぞれ少しずつ内容が違いますが、マルコ福音書には、イエスの墓の入り口に置かれた石について「石は非常に大きかった」という記述があります。イエスを墓の闇の中に閉じ込めるために置かれた石は、とても大きかったのです。しかし、その石でさえイエスを閉じ込めることはできませんでした。人間が置いたその石は、すでに脇に転がされていたのです。
 人間が置いた石によって、闇の中に閉じ込められてしまうということは、わたしたちにも起こりうることです。たとえば、「健康でたくさんの仕事ができる人、生産性の高い人には価値があるが、生産性が低い人には価値がない」という人間の思い込みが、大きな石となってわたしたちを闇の中に閉じ込めてしまうことがあります。もし高齢者が、「わたしは歳をとって、もう人の世話になるばかりだ。なんでこんな情けないことになってしまったのだろう」と嘆くなら、そのとき、その人は自分の心に、「生産性が低い人には価値がない」という思い込みの石を持ち込み、自分で自分を絶望の闇の中に閉じ込めているのです。
 そんな石を、イエスは簡単に転がしてしまいます。思い込みに閉じ込められたわたしたちに向かって、イエスは、「そんなことはない。人間は、ただ生きているというだけで十分に価値がある。情けないことなど何もない」「あなたはこれまで、たくさんの人を助けてきた。今度は、助けられる番になったのだ。互いに助け合いながら生きていく。それこそが人間の最も美しい姿なのだ」と語りかけてくださるのです。イエスの愛の前で、人間によって置かれた石は簡単に転がされてしまいます。どんな人でも、ただ生きているというだけで十分に価値があるのです。
 もう一つ、気をつけなければならない石があります。それは、「これまでに自分は何度も同じ間違いを繰り返してきた。自分はダメな人間なんだ」という思い込みの石です。「あんなに反省し、もう絶対に同じ間違いを犯さないと誓ったのに、またやってしまった。わたしはなんてダメな人間なんだ」と思って落ち込んだ体験は、きっと誰しもあるでしょう。そんな絶望の闇の中に閉じ籠ったわたしたちに、イエスは、「絶対に間違わない人間などいない。なんど失敗しても、あきらめずに立ち上がり、前に向かって進み続けるなら、あなたは必ず変わることができる。わたしはあなたを信じている」と語りかけてくださいます。イエスの愛の前で、わたしたちが自分で自分を閉じ込めた石は簡単に転がされてしまいます。ダメな人間などいません。人間は必ず、変わることができるのです。
 イエスの前では、人間の置いたいかなる石も無意味です。どんな大きな石でも、イエスは簡単に転がしてしまうのです。復活したイエスと共に、いつも光の中を歩み続けることができるよう祈りましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

バイブル・エッセイ(1136)成し遂げられた

成し遂げられた

 イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:28-30)

 イエスが十字架の上で最期に口にした言葉は、「成し遂げられた」だったとヨハネ福音書は伝えています。イエスは処刑され、弟子たちは散り散りになってしまったのですから、一見するとイエスの人生を通して成し遂げられたことは何もないように思われます。イエスは、十字架上の死によって、また全生涯を通して、いったい何を成し遂げたのでしょう。
 イエスが成し遂げたこと、それは神と人間との和解だといってよいでしょう。全生涯を通して、とりわけその生涯の頂点としての十字架の死を通して、イエスはわたしたち人間の罪をゆるし、神と人間とのあいだに和解を実現したのです。ナザレを出てイエスがしたこと、それは自分自身の罪によって、あるいは人々から罪人と決めつけられることによって社会の片隅に追いやられた人たちのもとに行き、その人たちの罪をゆるしたということに尽きます。イエスは徴税人や売春婦、重い病気で苦しむ人たちのもとに行き、彼らの罪をゆるしたのです。イエスの3年間の公生活は、「ゆるしの旅」あるいは「和解の旅」だったといってよいでしょう。
 その旅の最期に、ゆるしの業の頂点として、和解の完成として起こった出来事、それが十字架でした。十字架の出来事の始まりはユダの裏切りでしたが、イエスは、これから自分を裏切ろうとしているユダに向かって、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」といいました。それはつまり、「神のために命を捨てるほどの信仰を、まだあなたは持っていないのだから、わたしを裏切るのもやむをえないことだ。あなたがしたいようにすればいい」ということです。イエスは、自分を裏切ろうとしているユダの苦しみにさえ共感し、ユダをそのまま行かせたのです。
 イエスはペトロが、翌朝、鶏が鳴くまでに三度、イエスのことを知らないということまで分かっていました。しかし、イエスはそんなペトロをゆるしました。それだけでなく、「立ち直ったら、兄弟を力づけてやりなさい」という励ましの言葉さえかけたのです。鶏が鳴いたとき、イエスは振り向いてペトロを見つめたとルカ福音書は伝えていますが、そのまなざしは愛に満ちたものでした。「あなたの弱さ、罪深さをわたしはよく知っている。しかし、それでもわたしはあなたを愛している」、イエスのまなざしは、ペトロにそう語りかけるまなざし、ゆるしのまなざしだったのです。
 イエスは、自分に死刑を宣告したピラトに対してさえ愛情深い言葉をかけ、自分を十字架につけて殺そうとしているローマ兵たちのためにゆるしを願いながら死んでいきました。それらのことをすべて含めて、イエスの十字架は、まさにゆるしの完成、神と人間との和解の完成だったといってよいでしょう。人間のすべての弱さをあるがままに受け入れ、ゆるすことによって、イエスは人間の罪を贖い、救いを実現したのです。
 聖金曜日に、イエスの十字架を前にして、あらためてイエスの愛、神の愛の深さを思いだしましょう。わたしたちの弱さ、罪深さを知った上で、そんなわたしたちをあるがままに受け入れてくださるイエスの愛に触れ、わたしたちが心から悔い改めることができますように。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。

 

バイブル・エッセイ(1135)足を洗う意味

足を洗う意味

 過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。夕食のときであった。既に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを抱かせていた。イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」イエスは言われた。「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。さて、イエスは、弟子たちの足を洗ってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」(ヨハネ13:1-15)

 なぜ足を洗うのですかと尋ねたペトロに、イエスは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と答えました。いまはわからなくても、十字架と復活の出来事の後で必ずわかるようになる。いまはただ、わたしにあなたの足を洗わせてくださいということでしょう。
 ペトロはなぜ、イエスが弟子たちの足を洗うのを見て疑問に思ったのでしょうか。それは、ペトロがまだ「身分の低い人が偉い人に仕える。それが当たり前」と考えていたからでしょう。そのことは、ペトロたちがいつも、「自分たちの中で誰が一番偉いか」と言い争っていたことからわかります。弟子たちは、最後の晩餐の席でさえ、自分たちの中で誰が一番偉いかと言い争っていたのです。弟子たちはまだ、「自分こそイエスの一番弟子だ。自分が一番偉い。他の弟子たちは、わたしを尊敬し、わたしに仕えるべきだ」と考えていたのです。だからこそ、一番偉いはずのイエスが自分たちの足を洗うのを見て驚いたのだと思います。
 弟子たちのこのような考え方は、十字架と復活の出来事を通して根底から覆されます。イエスがローマの兵士たちに捕らえられたとき、弟子たちはみな怖くなり、自分の命惜しさに逃げ出してしまいました。そのとき弟子たちは、自分がイエスの弟子と呼ばれるに値しない者、誰よりも弱く、意気地のない者だと思い知らされたのです。しかし、復活したイエスは、そんな弟子たちをゆるし、大きな愛で包み込みました。イエスは弟子たちに、「あなたたちはわたしを裏切った。しかし、それでもわたしはあなたたちを信じ、あなたたちを愛している」とやさしく呼びかけたのです。そのとき、弟子たちの心は変わりました。自分の弱さを知り、神の愛の偉大さを知ったとき、弟子たちの心は傲慢の罪から清められ、柔和で謙虚なものになったのです。イエスの愛で心を満たされた弟子たちは、自分たちと同じように弱い人、罪の中で苦しみ助けを求めている人を見たら、その人に助けの手を差し伸べずにはいられない人、困っている人たちに奉仕せずにはいられない人になったのです。
 「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とイエスがいったのは、十字架と復活の出来事を通して弟子たちがこのような体験をするとわかっていたからでしょう。十字架と復活の出来事によって、弟子たちは傲慢な心を打ち砕かれ、互いに奉仕する者、奉仕せずにはいられない者に変えられていったのです。
 イエスは、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために来た」「多くの人のために自分の命を献げるために来た」ともいっておられます。もしわたしたちのあいだに、まだ互いに自分の知恵や力、経験などを誇って互いに競いあう心があるなら、いまこのとき、弟子たちの足を洗ったイエスの姿をもう一度しっかり心に刻みたいと思います。自分の弱さを知り、いつも謙虚な心で互いに仕えあうことができるよう、心を合わせてお祈りしましょう。

youtu.be

※バイブル・エッセイが本になりました。『あなたはわたしの愛する子~心にひびく聖書の言葉』(教文館刊)、全国のキリスト教書店で発売中。どうぞお役立てください。