バイブル・エッセイ(1138)天国は心の中に

天国は心の中に

 週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。(ヨハネ20:1-9)

 ヨハネ福音書の「空の墓」の場面では、イエスが葬られた墓の中に入っていくと、そこには亜麻布だけが置いてあった。しかも、顔を覆っていた布は離れたところに丸めてあったと、墓の中の様子が詳しく語られています。もし誰かがイエスの遺体を持ち去ったのなら、亜麻布ごと運ぶのが普通でしょう。まるでイエスが起き上がり、自分で布を外したかのようなその様子を見て、弟子たちは「見て、信じた」とヨハネ福音書は伝えています。そのただならぬ様子から、弟子たちはイエスが復活したこと。死者の世界にはいないことを悟ったのです。
 十字架上で死んだイエスは、天に上げられ、神の右の座に着いた。それがわたしたちの信仰です。わたしたちも、イエスと共に死ぬなら、天に上げられ、イエスと共に永遠の命を生きる。わたしたちはそう信じています。ですが、天国に行ってしまったら、先に亡くなって天国に行った人たちとは会えても、まだ地上で生きている人たちとはもう会えなくなるのではないかという心配があります。そのあたりは、いったいどうなっているのでしょうか。
 天国は、実はわたしたちの心の中にある。わたしたちの心は、一番深いところで天国とつながっている。わたしはそう考えています。亡くなって天国に行った人たちは、実は、わたしたちの心の中で生きている。そういってもよいでしょう。イエスは、わたしたちの心の奥深くに住んでおられます。それと一緒に、先に亡くなったわたしたちの家族や友人たちも、わたしたちの心の中で生きているのです。
 それは、わたしたちの実感だといってよいでしょう。亡くなった大切な人たちを思い出すとき、大好きだったおじいさんやおばあさんの手のあたたかさや、やさしくほほ笑みかけてくれた友だちの笑顔を思い出すとき、わたしたちは、まるでその人がまだ生きているかのようにはっきりと、その人たちの愛のぬくもりを感じることができるのです。「苦しくて仕方がありません。どうかわたしを守ってください」と語りかけると、その人たちが、「だいじょうぶ、わたしがいつも一緒にいるよ」と答えてくれる。ときには、その人がいつも座っていた椅子に、いまもその人が座っているように感じられる。そんな気がすることさえあります。亡くなった人たちは、わたしたちの心の中で、確かにいまも生きているのです。
 大切なのは、いつも心の中の天国とつながっていることだと思います。わたしたちは、日常生活の忙しさや思い煩いの中で、天国とのつながりを見失ってしまうことが多いのです。さまざまな心配事をいったん脇に置き、静かな心でイエスの愛を思い出す時間、亡くなった人たちのことを思い出す時間の中で、天国の扉は開きます。イエスの愛、亡くなった人たちの愛に感謝する祈りの中で、天国の扉は開くのです。心の中にある天国とのつながりをいつも持ち続けることができるように。天国の喜びの中で、イエスと、また亡くなった人たちと共に生きていくことができるように、心を合わせてお祈りしましょう。

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