やぎぃの日記(1) チャドの若者


 若者たちの一部から「ブログをもっとくだけた内容にしてほしい」という要望があった。そこで、新たに「やぎぃの日記」という形で若者たちと接する中でわたしが感じたことや考えたことを綴っていくことにする。「やぎぃ」というのはわたしのあだ名で、「かたやなぎ」が長すぎることから六甲教会の若者たちが勝手に付けてくれた。動物の「ヤギ」と勘違いして、手紙に「食べずに読んでください」と書いてくるような人もいるが、そういう人は何か根本的な部分でわたしを誤解していると思う。
 この日記の主な内容は、「やぎぃの会」や青年会、中高生会、教会学校などで若者たちの付き合う中でわたしが感じたことになるだろう。「やぎぃの会」というのは、分かち合いを中心にした若者たちの集まりで、人生とは何か、社会の中で起こっている問題について信者としてどう考えたらいいのか、教会の将来はどうあるべきなのかなどのことについて、毎月一つテーマを決めて話し合っている。定例会は月に1度だが、それ以外にも番外編でゲストを招いて話を聞いたり、一緒に山登りをしたりしていこうと思っている。
 今日は、その「やぎぃの会」の番外編として、アフリカのチャドという国で若者たちの世話をしている援助修道会の二條あかねさん(35)を招いて話を聞いた。平日の夜なのでどのくらい若者が集まるかなぁと心配していたのだが、なんと33人も集まった。みんな、よほどアフリカに興味があるらしい。六甲教会の若者だけでなく、聖トマス大学の学生さんたちや聖公会の若者たちまで来てくれた。
 1年間のチャド滞在で学んだ一番大きなことは、どんな厳しい現実であっても受け入れ、その現実の中に小さな幸せを見つけていくことの大切さだったと、二條さんが述懐したのが印象に残った。チャドでは、日中の最高気温が50℃に達するという過酷な自然環境の中で、電気も水も十分にはない生活を強いられる。人々に何が希望かを尋ねても、返ってくるのは「なんとか国を出たい」という返事ばかりだそうだ。世界で下から2番目という貧しさの中で、人々は絶望的な状況に置かれている。そんな中で生きていくためには、現実を受け入れ、小さな喜び、小さな感動を大切にしていくしかないというのが彼女の学んだことだったようだ。
 これはとても大切なことではないだろうか。どんな過酷な環境の中にあっても、その中にある小さな喜びや感動を大切にするならば、それらを通してわたしたちは「神の国」につながって生きていくことができると思うからだ。自分の理解を越えて一方的にあちらから与えられる喜びや感動、それらは人間の理解を越えて限りなく優しく、また美しい世界の存在をわたしたちに思い起こさせてくれる。その世界によって受け入れられ、包まれているという感覚を持てるならば、きっと人はどんなつらい環境の中でも生きていくことができるのではないだろうか。
 何年か前に、『千と千尋の神隠し』という映画があった。主人公の女の子は、初めわがままな現代っ子だったのだが、不条理なまでに厳しい別世界に投げ込まれることで、しだいに「生きる力」を取り戻していく。厳しい環境の中で、彼女は人から受ける小さな親切がどれだけありがたいか、人との信頼関係がどれほど大切かなどに気づき、生まれ変わっていくのだ。厳しい環境に放り込まれないと、人間はそういうことの大切さに気がつかないということがあるようだ。
 厳しい環境が当たり前の世界で生きているチャドの若者たちは、小さなことに喜びや感動を感じることで「神の国」とつながり、「生きる力」をたくさん与えられているのかもしれない。貧困を美化することは決してすべきでないが、貧困の中で生きている人々の中に確かな「生きる力」があるというのも事実だ。「貧しい人々は幸い」とイエスは語ったが、貧しさがもたらす幸いというものが本当にあるんなだなぁ、と二條さんの話を聞きながら思った。