バイブル・エッセイ(133)すべてを準備してくださる方

《お知らせ》先日「やぎぃの日記」でご紹介した超教派パエリアの集いが、カトリック新聞4月18日号で記事になりました。どうぞご覧ください。

 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。
 既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。
 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった。それほど多くとれたのに、網は破れていなかった。イエスは、「さあ、来て、朝の食事をしなさい」と言われた。弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである。イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。(ヨハネ21:1-14)

 福音書に描かれた復活のさまざまな場面は、わたしたちに復活がなんであるかを教えてくれます。空の墓の物語は、イエスが心も体もわたしたちの目に見えない世界に移され、そこで生きておられるということを、エマオの物語は、イエスがどんなときにもわたしたちの人生の旅路に同伴してくださっていることをわたしたちに教えています。では、今日の物語はわたしたちに一体何を教えているのでしょう。
 それは、復活したイエスがいつでもわたしたちを見守っていてくださること、そしてわたしたちに必要なものをすべて準備してくださることだと思います。わたしたちが気付かなくてもイエスはわたしたちにいつでも心を配り、食べ物が必要ならば食べ物を、着るものが必要ならば着るものを、友の助が必要ならば友の助けを、必要なものがあればすべて準備してくださるのです。わたしたちが生きていくために必要なものすべては、実は復活したイエスが準備してくださったものだと言っていいでしょう。
 「そういうものは、自分で準備している。イエスの助けなど借りていない」と思う人もいるかもしれません。しかし、本当にそうでしょうか。この世界は、復活したキリストの霊に満たされ、その秩序によって動いています。その秩序が崩れるなら、わたしたちは自分の力で何も手に入れることはできないのではないでしょうか。
 わたしたちの命でさえそうです。キリストの復活の力がわたしたちの心の底から湧き水のように絶えず流れ出しているからこそ、わたしたちは生きる力を得、生きてゆくことができるのではないでしょうか。
 わたしたちが生きるために必要なすべてのものは、わたしたちをいつも見守っていてくださるイエスが、わたしたちが気付かないうちに準備してくださったものなのです。その恵みに気付き、感謝しながら生きてゆきましょう。
※写真の解説…ヤマブキの花。六甲山、徳川道にて。