バイブル・エッセイ(307)目に見える信仰


目に見える信仰
 わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。しかし、「あなたには信仰があり、わたしには行いがある」と言う人がいるかもしれません。行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。(ヤコブ2:14-18)
 「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう」とヤコブは言います。信仰は、口先だけの言葉にではなく、目に見える行いの中にこそあるということでしょう。
 昔、カルカッタの「死を待つ人の家」でボランティアをしてた頃、こんなことがありました。「死を待つ人の家」には、長期休暇になると地元の高校生や大学生が学校の奉仕活動でやって来ます。中には学校の指導でいやいや来ているのがはっきりわかる若者もいますが、ほとんどの若者は貧しい人たちのために一生懸命に働いてくれます。そんな中に、ひときわ目立つ若者がいました。患者さんの中には、コップを投げたり、暴言を吐いたり、隣の人とすぐに喧嘩をしたりするような困った人もいるのですが、その若者はそんな患者さんに対しても笑顔を向け、かいがいしく世話をするのです。投げられたコップを拾って「どうしたの」とにっこりほほ笑みながら話しかけたり、トイレの世話をしたり、汚れた毛布を交換したり、誰の目から見てもすがすがしいほど見事な奉仕でした。
 あるとき、わたしは若者に「君は、どうしてあのおじいさんにあんなに優しくできるんだい」と聞いてみました。すると、若者は答えました。「ぼくには、子どもの頃、ぼくをとても大切にかわいがってくれたおじいさんがいました。もう何年も前に死んでしまいましたが、あの乱暴なおじいさんは、ぼくのおじいさんにどこか似ているのです。」彼は、目に見える乱暴なおじいさんの向こう側に、昔、自分を大切にしてくれたもう一人のおじいさんの姿を見ていたのです。目に見えるものの向こう側に、目に見えないもう一つの世界を見る、これは信仰と言っていいでしょう。彼の信仰は、誰の目にも明らかな形で彼の行いの中に現れていたのです。
 この若者に学びたいと思います。わたしたちは、お互いの中にイエス・キリストがいると教えられていますが、果たしてそれを心から信じて実践しているでしょうか。もし教会で出会う仲間の中にイエスを見るならば、わたしたちはもっとその人の言葉に丁寧に耳を傾け、その人の思いを尊重し、その人が困っていれば自分のことを差し置いても助けの手を差し伸べるに違いありません。わたしたちを大切に思い、わたしたちのために命さえも捧げてくださったイエスのためです。いやいやではなく、カルカッタの若者のように、喜んで、生き生きと仕えあうことができるに違いありません。そのように喜んで仕え合うわたしたちの姿を見るとき、周りの人たちはわたしたちの中に何かがあると気づくことでしょう。
 もしわたしたちに信仰があるならば、それは必ず目に見える形を取るはずです。本物の信仰は、それ自体が目に見える形を取り、周りの人々に力強く福音を宣教する力を持っているのです。そのような本物の信仰を生きることができるよう、神に助けを願いましょう。
※写真の解説…1995年頃、カルカッタ「死を待つ人の家」にて。ミサ中の風景。