バイブル・エッセイ(44) 二條あかねさん追悼

 このエッセイは、2月4日に援助修道会六甲修道院で行った二條あかねさん追悼ミサでの説教に基づいています。

 世から選び出してわたしに与えてくださった人々に、わたしは御名を現しました。彼らはあなたのものでしたが、あなたはわたしに与えてくださいました。彼らは、御言葉を守りました。わたしに与えてくださったものはみな、あなたからのものであることを、今、彼らは知っています。
 なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。
 彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。(ヨハネ17:6-9)

 二條あかねさんの突然の訃報に接し、みなさん強いショックを受けておられると思います。わたし自身、この知らせを聞いてから呆然として何をしても身が入らない状態が続いています。人と会っていても話しをしていても、まるで自分が別の世界にいるような、周りと次元がずれてしまったような感じです。あかねさんのあの笑顔をもう見ることができないという現実を、どうしても受け入れることができません。
 あかねさんとは修道会に同じ時期に入ったこともあって、10年くらい前から親しくしてきました。同じ地域で働いたことはありませんでしたが、年に1、2回は会って修道生活での体験を分かち合ったりしていました。チャドに行ってからも、ときどき手紙のやり取りはしていました。今日読んだ福音は、彼女から最後にもらった手紙、わたしの叙階を祝う手紙の中で彼女が引用していた聖書の1節です。
 イエスのように自分のすべてを神に捧げ、神のものである人々に仕える司祭になってほしいとの願いを込めて、彼女はわたしへの手紙の中でこの箇所を引用したのでしょう。ですが、今のわたしにはこの言葉を語っているイエスの姿があかねさんと重なって見えます。神のものであるチャドの人々に仕えるために、彼女は自分の全てを神に捧げ、チャドの人々と同じ生活をしながら彼らと共に生きることを選びました。
 「病気、事故などここでは人々の生活の間で死は本当に身近な存在です」と彼女は手紙の中で書いています。彼女はチャドの人々に福音を伝えたいとの一心で自分のすべてを人々に捧げ、その情熱のあまりついにチャドの人々と運命を共にしたのだという気がします。彼女は、アフリカの人々の苦しみを自らもその身に背負って死んでいったのです。これからわたしたちは、アフリカで人々が災害や事故に巻き込まれて死んだというニュースを聞くたびに彼女のことを思い出し、彼女のために、そして彼女が仕えたいと願ってやまなかったアフリカの人々のために祈ることになるでしょう。
 神様は彼女の生涯を通してほんとうにたくさんのことをわたしたちに語ってくださいました。その言葉のすべてを、一言ももらさず心に刻み込みこみ、再び御国で彼女と出会うまでの糧にしたいと思います。
 今日の福音は、次のように続いていきます。
 わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。
 このイエスの言葉を、わたしはあかねさんがわたしたちに残した遺言として受け止めたいと思います。彼女のこの地上での役割は終わりました。ですが、御国でイエスとともにわたしたちのために祈ってくれています。悲しみの涙をぬぐい、彼女がわたしたちを待っている御国を目指してまっすぐに歩み続けましょう。
※写真の解説…六甲教会で若者たちと語り合う二條あかねさん。