バイブル・エッセイ(22) 悔い改める心


「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」
 彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21:28-32)

 子どもの頃を思い出すと、わたしにもこの兄弟と似たようなことが度々あったと思います。たとえば、母から勉強しなさいと言われて「すぐにするよ」といい返事をしたものの、部屋に入ってマンガを読んでいたというようなことはよくありました。見つかって注意されると、怒りながら「今やろうと思ってたのに」と口答えしたものです。それと逆に、父から花の出荷の手伝いを頼まれて、最初は「やーだよ」と言って逃げ出したものの、あとから家族総出で働いているのに自分だけは手伝わないのは申し訳ないなと思って手伝いに戻ったというようなこともありました。
 あの頃のことを思い出すと、この2人の兄弟の気持ちが少し分かるような気がします。まだ幼い弟は、きっと自分のやりたいことしか考えていなかったのでしょう。いい返事はしたものの、やりたいことを始めてしまうと楽しくて仕方なくなり、ぶどう園で汗水たらして働いているお父さんや家族のことまで考えることができなかったのだろうと思います。それに対して年長のお兄さんには、お父さんや家族のことを思いやる気持ちが芽生えてきていたのでしょう。だから、初めは断ったものの、あとから戻って仕事を手伝ったのだろうと思います。
 この話しの中できっと一番大切なのは、わたしたちにどれだけお父さんのことを思いやる気持ちがあるのか、お父さんを大切にしたいという気持ちがあるのかということではないでしょうか。もしお父さんを大切に思う心があれば、最初は言いつけを拒んだとしても後でお父さんのもとに立ち返ることができるからです。それがなければ、わたしたちは自分のやりたいことだけをやって、お父さんを悲しませてしまうでしょう。
 このたとえ話のお父さんは、言うまでもなく神様のことです。そして、この2人の兄弟はわたしたち信者です。わたしたちは神様からぶどう畑、つまりこの世界で収穫の仕事をするように頼まれているのです。教会に来ているときは「はい、やります」といい返事をするけれど、家に帰ったら自分のやりたいことばかりやって、隣人が苦しんでいるのを無視したり、人の悪口ばかり言ったりというようなことになっては困りますね。もし本当に神様を大切に思う心があれば、聖書の言葉や神父さんの話を聞いて「そんなことできません」と思ったとしても、家に帰って反省して神様のために何かをするようになるかもしれません。大切な神様を悲しませていては、どんなに楽しいことをしたとしても本当に楽しくはありませんから。
 結局のところ、悔い改めて神様に立ち返ることができるかどうかは、わたしたちがどれだけ心の中で神様を大切に思っているかにかかっているのだと思います。わたしたちは、神様を心から大切に思っているでしょうか。口先だけでなく、心の底から神様を喜ばせたい、神様を悲しませるようなことは絶対にしたくないと思えるでしょうか。この御ミサの中で御言葉と御聖体を通して神様の愛を全身で感じ、神様が一番大切だ、神様を悲しませるようなことは絶対にしないぞと言えるようになればいいですね。
※写真の解説…夕陽を浴びた夏雲。長崎黙想の家から。