バイブル・エッセイ(768)働きの報酬


働きの報酬
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」(マタイ20:1-16)
 最初に来た者も、最後に来た者も、天国では同じように報われるとイエスは言います。福音の核心に迫る含蓄の深いたとえ話ですが、誤解を招きやすく、理解するのが難しい話でもあります。「丸一日働いた人と、最後の数時間だけ働いた人で賃金が同じなんて不当だ。労働者の権利を無視している」という風に考えて、神様に不信を抱いてしまう人がとても多いのです。この箇所は、本当に不当なのでしょうか?
 第一に思い出さなければならないのは、これは「神の国」のたとえ話だということです。ぶどう園での労働は、神の子として自分に与えられた使命を果たすこと、賃金は永遠の命だと考えたらよいでしょう。幼児洗礼などで子どもの頃から教会に通い、神の愛を実践して生きてきた人も、死ぬ間際になって悔い改め、最後の数日だけ祈りと奉仕の日々を送った人も、神様は同じように天国に迎え入れ、永遠の命を与えてくださいます。だから、悔い改めるのに遅すぎるということはない。今からでも神様のブドウ畑に行き、雇っていただきなさい。それが、このたとえ話の中心的なメッセージです。
 それでもなかなか割り切れない。「それなら、初めから働いた方が損じゃないか。わたしたちはこんなに頑張ったのに」とか「最後の最後になって悔い改めるのが得だ。いま悔い改めるのはやめておこう」などと考える人もいるでしょう。ですが、本当にそんなことが言えるでしょうか。子どもの頃から神様の愛に触れ、隣人への奉仕を実践しながら生きてきた人生の日々は無駄だったのでしょうか。「せっかくの日曜日を犠牲にして教会に通って、本当に損をした」「神の教えになんか従わず、自分のやりたいことをやって生きた方が得だった」などと言うことができるのでしょうか。
 神の国のブドウ畑での奉仕には、それ自体として価値があるということを忘れないようにしたいと思います。神様の愛の恵みの中で、家族や友人、教会の仲間たちと助け合って生きる日々は、それ自体が恵みであり、報酬なのです。わたしたちは、最後に報酬を受け取るだけでなく、日々、報酬を受け取っているのです。報酬を求めずに自分を差し出し、神様のため、誰かのために役に立ったときに生まれる喜びこそが、わたしたちの報酬だと考えたらいいでしょう。神様の愛に包まれて幸せに生きた人生の日々そのものが、わたしたちの報酬なのです。
 最後のときまで待つ必要はありません。一日のうち何時でも、つまり人生のどのような段階でも、神様のもとで働きたいと願って広場に行くなら、神様は必ずその人を雇ってくださいます。わたしたちは、いつからでも、恵みの中で働く神の国の労働者になることができるのです。神様の気前のよさに感謝して、悔い改めの恵みを頂きましょう。