バイブル・エッセイ(769)行いが証しする愛


行いが証しする愛
「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」(マタイ21:28-32)
「兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった」、父の望みどおりにしたのはどちらかと、イエスは律法学者たちに問いかけます。本当に父親を愛し、父親の望みのままに行動したのは、口先だけで実際に行動しなかった弟ではなく、悔い改めて畑に出かけたお兄さんの方に違いありません。天の国に入るために必要なのは、父である神様を愛し、神様の望みのままに生きたいと思う心であり、その心が真実であるかどうかは行いによってわかる。それが、このたとえ話のメッセージでしょう。
 わたしたちのあいだでも、同じようなことがあるように思います。「困ったときは何でも言って。なあたのためならなんでもしますよ」と口先では調子のいいことを言うのに、実際に何かを頼むと、様々な理由をつけて断る人と、普段は無愛想でも、困ったときには黙って助けの手を差し伸べてくれる人がいたとして、わたしたちを愛しているのは、どちらでしょうか。調子のいいことばかり言って実際に行動しない人は、自分がよく見られることしか考えていない人です。それに対して、無愛想ではあっても、困ったときに助けてくれる人は、わたしたちのことを考えてくれています。口では言わなかったとしても、わたしたちのことを大切に思い、わたしたちが困っているなら自分を犠牲にしてもかまわないとさえ思っていてくれるのです。それこそ、愛だと言っていいでしょう。相手が本当にわたしたちを愛してくれているかどうかは、その人の行いによってはっきりとわかるのです。
 相手の苦しみに共感し、相手のために自分を差し出さずにはいられない。それこそが、愛の本質です。愛しているなら、相手が困っているときに行動せずにはいられないのです。わたしたちが、互いに相手のために自分を喜んで差し出すとき、わたしたちの間に確かな愛の絆が結ばれます。その絆が、わたしたちの人生に幸せをもたらすのです。
 神様との間でも、それはきっと同じです。わたしたちは、ミサの中で「あなたを愛しています。隣人を愛します」などときれいな言葉をたくさん言います。ですが、問われているのは、むしろミサが終わってからです。その人が心の底から神様を愛し、神様の望みのままに生きたいと思っているなら、ミサが終わってロビーに出た途端、誰かの悪口を言い始めたり、仲間を無視したりするようなことはないでしょう。もしそんなことをするなら、その人は畑に行くと言いながら実際には行かなかった弟と同じです。
 ミサの中で祈った言葉は、実際の行動によって証しされ、完成されます。イエスが十字架上で自分を差し出したとき、神様とあいだに完全な愛の交わりが結ばれたように、わたしたちが自分自身を神様のために差し出すとき、わたしたちと神様との間に確かな愛の絆が結ばれるのです。心の底から神様を愛し、その思いを行動に移してゆくことができるように祈りましょう。