バイブル・エッセイ(416)『愛の尺度』


『愛の尺度』
 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』(マタイ20:8-15)
 朝からブドウ園で働き、たくさんの報いを期待してやって来た人に、主人は「自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ」と言いました。労働に応じた対価を求める労働基本法の精神によれば、これは不当にも思える態度です。ですが、これは天の国のたとえ話。ブドウ園をわたしたちの人生、報酬を人生の終わりに受ける報いと考えたらどうでしょう。
 そもそも、わたしたちが人生の終わりに受ける報いは、お金ではなく、神様の愛であり、永遠の命です。お金と違って、愛や永遠の命はわけることができません。「あなたは人生の後半だけがんばったから、半分だけ愛してあげよう」とか「半分だけ永遠の命を与えよう」ということはできないのです。神様は、すべてをかけた愛に対して、すべてを与え尽くす愛によって報いて下さる方。神様は、労働の成果に応じてではなく、労働にこめられた愛に応じて報いる方なのです。
 ですから、「朝から働いているんだから、子どものころからずっと努力しているんだから、たくさんの報いがあるだろう」と考えてはいけません。大切なのは、どれだけ働いたかではなく、働きにどれだけ大きな愛が込められているかなのです。もし愛のために働いているなら、自分がたくさん働いたからといって、あまり働けなかった人を見下すことはないはずです。むしろ、働かせていただいたことに感謝し、働けなかった人たちのために祈るはずなのです。短い時間しか働けなかった人たちを「この連中」と呼ぶ労働者たちに向かって、「友よ、あなたに不当なことはしていない」という主人の言葉の奥には、「あなたは何のために働いたのか」という鋭い問いが潜んでいるように思えます。
 逆に、人生の最後しか働くことができなかったとしても、心配する必要はありません。「わたしはこれしか働くことができなかった、ダメな人間だ。わたしの人生は失敗だ」と考える必要はないのです。たとえわずかな時間であっても、自分のすべてをかけて誠実に働くなら、神様はご自分の全てを与えて下さいます。神様は、わずかな働きに対しても、すべてを与え尽くす愛によって報いて下さる方なのです。目立つ働きをした人を羨み、「あの人は大活躍して人から評価されて羨ましい」と考える必要もありません。目立たなくてもたっぷり愛をこめた働きには、神様が豊かに報いて下さるからです。
 マザー・テレサも言っている通り、「大切なのは、どれだけ大きなことをするかではなく、小さなことにどれだけたくさんの愛をこめられるか」です。それが、人間の思いをはるかに越えた神様の尺度なのです。神様は、この世の尺度で測ってどれだけ大きな成果を上げたかではなく、愛の尺度で測ってどれだけ大きな愛をこめたかを測られるのです。自分の行いを見るときにも、人の行いを見るときにも、どれだけ大きな成果を上げたかではなく、どれだけ大きな愛をこめたかを見たいと思います。神様も、ただ、わたしたちの行いにこめられた愛だけを見ておられます。
※写真…奈良県、明日香村の棚田と彼岸花