フォト・エッセイ(54) 森林植物園へ①


 昨日は、教会の若者数人と一緒に高山植物園から森林植物園までの道を歩いた。途中、赤や黄色に色づいた木々が水面に影を映す穂高湖の湖畔でお弁当を食べ、3時間くらいかけてゆっくりと歩いた。高山植物園はもちろん、森林植物園も長谷池の周りのモミジを中心にして今まさに紅葉がピークを迎えているところだった。もう2、3日もすれば散ってしまうというくらいときに見られる、深紅の色に染まったモミジの木々も散見された。穂高湖から森林植物園へと続く徳川道にも、たくさんの落ち葉が降り積もっており、歩くたびにサクサクといい音を立てていた。
 連れの1人がカメラを持ってきて、写真の撮り方を教えてほしいというので、紅葉を撮るときのコツをいくつか教えた。透過光で撮ること、PLフィルターをうまく使うこと、きれいな葉をよく選んで撮ること、木の種類によっては接写に向くものがあること、露出を何段か変えてみることなど、これまで何千枚となく紅葉の写真を撮る中で身につけてきたコツをいくつか教えたのだが、刻々と変化していく光を読みながら正確に紅葉の色彩を写し取るのはそう簡単なことではない。なにしろ足と頭を使ってどんどん撮る中で覚えていくしかないようなことがたくさんある。「暗黙知」と呼ばれる種類の知のあり方が芸術の世界には存在するが、どうやら写真にもそのようなことがあるようだ。
 技術的なことはともかく、風景写真を撮るときに一番大切なのは、世界が風景を通して発するメッセージを心と体ので受け止めることだと思う。この世界は、絶えずすべてのものを通してわたしたちになんらかのメッセージを伝えようとしている。それはときに、「がんばれよ」という励ましのメッセージであったり、「だいじょうぶだよ」という癒しのメッセージだったり、「大好きだよ」という愛のメッセージだったりする。それらのメッセージをいくつ受け止められるかが、その人の写真の質を決定するように思う。
 全身を目とし、耳として世界に向かい合って世界と対話するときに聞こえてくるメッセージを、忠実にカメラで写し取ろうとする試みが、わたしにとっての風景写真だ。メッセージを妨げる余分な要素は一切排除し、体と心で感じたメッセージの核心だけを写し取ることができたときにだけいい写真が撮れるような気がする。露出などの技術は、写真から余分なものを取り去るためにだけ必要だ。
 以前にも書いたが、心を研ぎ澄ませば、神様が御造りになったこの世界にメッセージを発していないものなど何もないと思う。神様が御造りになったすべてのものは、わたしたち人間の心になにかを訴えかけようとしている。自分の思い込みに縛られたり、派手な装飾や輝きに目を奪われたりすることなく、曇りのない澄んだ目でこの世界をありのままに見たいものだと思う。




※写真の解説…1枚目、穂高湖にて。2枚目、高山植物園の紅葉。3枚目、森林植物園の紅葉。