入門講座(22) 終末とは何か

《今日の福音》ルカ10:21-24
 この箇所を読むと、まずイエス聖霊によって喜びに満たされて語ったとあります。心の底から湧き上がり、わたしたちをつき動かすような喜びは聖霊の働きなのかもしれません。
次に、イエスが救い主であることは知恵ある者や賢い者には隠され、幼子のような者に示されたとあります。自分が知恵のある者、賢い者だとうぬぼれている人たちは、大工の子である若者イエスの言葉に耳を傾けませんでしたが、自分の無力さを知っている「幼子のような者」はイエスの言葉に謙虚に耳を傾けました。知恵のある人や賢い人は、自分から救いへの招きを断ったようなものです。
 そのあとで語られる箇所は、以前にお話ししたイエス受肉の神秘の意味を、イエス本人が語っている箇所です。イエスが現れるまで、人類は神様がどのような方であるのかをはっきりと知るすべを持っていませんでした。しかし、神様がわたしたちと同じ人間になってくださったことで、わたしたちは神様と出会い、神様の声を聞き、神様がどのような方であるかを知ることができるようになったのです。これはたくさんの預言者や王たちが望んだことでした。彼らの望みは、時が満ちてイエスが降誕したことによってついに実現したのです。

《終末とは何か》
 キリスト教ではよく「世の終わり」とか「裁きの日」のことが語られます。終末についての教えは、キリスト教信仰の土台になる大切な教えの一つです。今回は、キリスト教の語る終末がどのようなものなのかについて考えてみたいと思います。

1.現代人の終末意識
(1)カルト宗教の破局終末論
 教祖への絶対的従順や強引な勧誘、反社会的な行動などを特徴とするカルト宗教の中には、終末への恐怖心を駆り立てることで信者を集めようとするものもあります。もうすぐ終末が来て全人類が滅びるが、わたしたちの団体に加われば助かる。そればかりか、終末のあと新しくできる世界で支配者になることができる、そのような宣伝につられてカルト宗教に参加する若者があとを絶ちません。このような終末論を、破局終末論と呼びます。彼らは終末に起こる世界の破局を恐れると同時に、自分たちが支配者になれる破局後の世界を待ち望んでいるのです。中には、終末が待ちきれずに自分たちで終末を始めようとするグループもあります。
(2)輪廻転生説
 終末による大変革ではなく、この世の命がいつまでも繰り返されることを信じている人たちもいます。もともと仏教では、輪廻転生とは人間の業が生み出す苦しみの連鎖であり、輪廻の輪から抜け出すことこそが救いだと考えられていました。しかし、現代の輪廻転生説はもっとポジィティブで、今の人生でかなえられなかった夢が次の人生でかなえられたり、別れた人と再会できたりするような生まれ変わりを説きます。このような輪廻転生説は、ニューエイジと呼ばれる思想の中にたびたび現れます。
(3)千年王国
 終末について語る宗教の説明を聞いていると、「千年王国」という言葉をたびたび耳にします。これはそもそも12世紀にフィオーレのヨアキムという修道者が使い始めた言葉で、終末の前に現れる理想の世界を意味しています。ヒトラーナチス・ドイツは、自分たちの政治をこの「千年王国」の実現だと宣伝していました。

2.終末をどう理解するか?
 終末は人間の理解を越えたものなのですが、なんとか理解しようとして人間は正反対の内容を持った2つの説明を考えだしました。
(1)時間内終末論
 終末は時間の中で起こる、いつかは分からないが未来にやってくると考える立場です。この立場からは、終末が未来の希望として説明されます。聖書の中では、「最後の審判」についての言説がこの立場からの終末理解だと言えるでしょう。
(2)超時間的終末論
 終末は時間を超えたものであり、永遠であるから、今も存在していると考える立場です。この立場からは、わたしたちが生きている時間と並行して終末の次元が存在し、それがときおり時間に介入してくることが終末だと説明されます。聖書の中では、イエスにおいて「神の国」が到来した、終末が始まったとする言説がこの立場からの終末理解だと言えるでしょう。終末の次元、すなわち「神の国」はいつでも存在するけれども、イエスにおいて初めて時間に介入してきたという考え方です。

3.イエスが説いた終末
 イエスは、やがて起こる「最後の審判」について語ると同時に、自分において「神の国」が到来したとも語っています。イエスの言葉の中には、理論的には相入れないはずの時間内終末論と超時間的終末論が混在しているのです。どのように理解したらいいのでしょうか。
 イエスが説いた終末は、「神の国」の到来のことだと考えていいでしょう。「神の国」がイエスにおいて始まったことも確かです。ですから、終末はイエスにおいて始まっており、イエスと出会う時にいつでも存在すると考えることができます。ですが、それと同時に、イエスにおいて始まった終末はまだこの地上で完全に実現していないとも言えます。やがて来る「終わりの日」、「最後の審判」の時に、「神の国」は初めて完全に到来し、実現するからです。イエスの語る終末は、そのような意味で理解したらよいのではないかと思います。

4.現代神学の終末理解
 終末をめぐる2つの違った考え方は、現代神学における終末の説明にもはっきりと現れています。
(1)K.ラーナーの終末論
 ラーナーは終末を、イエス・キリストにおいて先取りされた人間の最終的完成への希望として理解します。イエスは、十字架上で自分の命さえ神に捧げたことで神と完全に一致し、人間と神との完全な交わりを先取りしました。終末においてはわたしたちもこの完全な交わりに招かれ、究極的な救いに与ることができる、それこそがキリスト教の語る希望だとラーナーは考えています。
(2)K.バルトの終末論
 バルトは終末を、「歴史の各瞬間に対して超越的に介入してくる永遠がもたらす、危機的状況」と定義します。わたしたちはイエスと出会う時に、永遠の次元(「神の国」と言ってもいいでしょう)からの呼びかけに直面し、それまでの人生を根底から変えなければならないような決断を迫られる、それこそが終末だというのです。

5.公審判と私審判
 終末をわたしたち一人ひとりの問題として考えたとき、「最後の審判」とはどのようなものなのかという疑問が浮かんできます。
(1)公審判
 聖書が語る「最後の審判」は、公審判とも呼ばれます。イエスが天から下ってくる「終わりの日」に、これまでに死んだすべての人間が肉体と共に蘇り、そのときに生きている人間たちと共にイエスによって裁かれるということです。
(2)私審判
 キリスト教の伝統の中では、「最後の審判」の前に、死者の魂が神の前で裁かれる私審判があると信じられています。死者の魂は、死の直後に裁かれて天国、煉獄、ないし地獄に行くということです。
(3)公審判と私審判の関係
 では、公審判が起こるとき、死者たちの魂は天国や地獄から呼び返されて肉体を取り戻し、もう一度裁かれて天国や地獄に戻っていくのでしょうか。
 この疑問は、そもそも問いの立て方に問題があると考えられます。次の3つのことを考えてから、この疑問に意味があるかを考えなおしてはどうかと思います。
①死んだあと、人間は永遠に移される。永遠には時間の流れがないから、先も後もない。だとすれば、時間的に先後するものとして2つの審判を理解しようとすることは間違っているのではないか。
②終末は常に存在するという考え方に立てば、審判は今もすでに開始されている。イエスも、自分を「信じない者はすでに裁かれている」(ヨハネ3:18)と述べている。死後の審判は、その審判の延長線上にあるのではないか。
③肉体から離れて、魂だけの「わたし」が存在するということがありうるのか。

6.天国・煉獄・地獄
 では、死んで裁きを受けた後、わたしたちはどうなるのでしょうか。キリスト教の伝統では、裁きのあとわたしたちは天国、煉獄、ないし地獄に送られると信じられています。
 死んだあと、わたしたちは永遠に移され、わたしたちの時間感覚や空間感覚では理解できないところに行くことになります。天国・煉獄・地獄とは、そのときにわたしたちが直面する状態、ないし理解を超えたその「場所」を指し示すための言葉だといえるでしょう。終末はすでに始まっているという立場に立てば、わたしたちは死ぬ前であっても天獄・煉獄・地獄を生きる可能性があります。
(1)天国
 天国とは、父なる神の愛と一致して離れない状態だと言えるでしょう。西方の伝統では「至福直感」と呼ばれる神との直接的な出会いの体験が与えられるるとされ、東方の伝統では「神化」と呼ばれる神との一致が起こるとされています。「永遠の安息」という言い方もありますが、ただ同じ状態がいつまでも続くと考えるよりは、無限の神の愛が無限に新しく示され続ける状態と考えた方がいいかもしれません。
(2)煉獄
 煉獄とは、死に直面した人間が、悔い改めと回心によって浄化されていく状態だと言えるでしょう。神の愛が無限で、わたしたちの罪がすぐに赦されるとしても、わたしたちの心には神から離れてしまったことへの慙愧の念が残り続けます。その思いを清め、晴れやかな気持で神の前に立つために煉獄が必要なのだと思われます。
 わたしたちは死者のために祈りますが、それは主に煉獄にいる死者のためです。天国にいる人たちのために祈ってもあまり意味がないでしょう。天国にいる人たちには、むしろ取り次ぎを願った方がいいと思われます。地獄にいる人たちのために祈ってもあまり意味がありません。地獄はもう取り返しがつかない状態でだからです。煉獄がないとすれば、死者のために祈る意味がなくなってしまい、死者のために祈りたいと思う人間の素朴な宗教感情に反する恐れがあります。
(3)地獄
 地獄とは、人間が自由意思によって神に完全に心を閉ざす状態だと考えられます。神の怒りに触れて地獄に落とされるというよりは、神の愛を頑なに拒んで自分から地獄の状態を作り出すということでしょう。神の愛に心を閉ざして自分のことしか考えない人間は、エゴイズムが生み出す暗くてどろどろした欲望の渦の中に飲み込まれて苦しみ続けることになるのだと思います。
 神は悔い改める罪人を必ずゆるして下さいますが、自分の自由な意思で悔い改めを頑なに拒んでいる人を無理やり自分のもとに連れてくることはしません。無理やりに連れて来ても、その人が自分自身から悔い改めない限り、その人の心に平安が訪れることはないからです。神が愛ならば地獄があるのはおかしいという人がいますが、人間に自由な意思がある限り自ら地獄を選ぶ人が出てくる可能性は否定できないのです。

《参考文献》
・『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2002年。