バイブル・エッセイ(34) 道を整える


「神の子イエス・キリストの福音の初め。預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、/あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、/その道筋をまっすぐにせよ。』」
そのとおり、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた。ユダヤの全地方とエルサレムの住民は皆、ヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた。ヨハネはらくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていた。彼はこう宣べ伝えた。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」(マルコ1:1-8)

 洗礼者ヨハネは、イエスのために道を整えるという使命を帯びて人々のもとに遣わされました。ですがヨハネは、もちろん土木工事をするために遣わされたのではありませんし、イエスが来やすいようにローマ帝国の支配を打倒するために遣わされたのでもありません。では、一体なんのために遣わされたのでしょうか。ヨハネは、わたしたちの心の中にイエスが通る道を整えるために遣わされたのだと思います。
 イエスはわたしたちの心に神の愛を届け、さらにわたしたちの心を通ってわたしたちの周りの人々にも愛を届けるために来られます。もしイエスがやって来たときに、わたしたちの心の中に誰かに対する怒りの炎が燃え上がっていたとしたらどうでしょうか。イエスはわたしたちの心に入ることができないでしょうし、わたしたちの心を通って周りの人々に神様の愛を届けることもできないでしょう。もしわたしたちの心が他人に対する無関心の壁で閉ざされていたらどうでしょうか。もしわたしたちの心に他人を見下す偏見の岩がごろごろしていたらどうでしょうか。やはり、イエスはわたしたちの心に入り、わたしたちの心を通っていくことはできないでしょう。
 イエスに通っていただくために、わたしたちは自分の心の道に置かれた障害物を取り除ける必要があります。怒りの炎を消し、無関心の壁を壊し、偏見の岩を掘り起こし、イエスが通るのを妨げるようなものをすべて取り除く必要があるのです。それらを1つひとつ取り除けて、わたしたちの心の中にイエスが通るための道を整えること、それこそがヨハネの言う「悔い改め」なのだと思います。
 この待降節のあいだ、日々の生活の中で、わたしたちの心の中にある障害物を見つけて1つひとつ注意深く取り除いていきたいものです。せっかくやって来られたイエスを、自分から拒絶してしまうことがないように。
※写真の解説…徳川道の杉木立。森林植物園に向かう途中で撮影。