バイブル・エッセイ(498)イエスと共に苦しみを担う


エスと共に苦しみを担う
 エスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:28-30)
 教皇様は昨日、ローマ郊外の難民受け入れセンターを訪れ、そこでさまざまな文化、宗教に属する難民たちの足を洗いました。難民たちの苦しみに寄り添うと同時に、世界の目を難民たちに向けさせたと言っていいでしょう。難民が生まれる中東やアフリカの問題状況は、わたしたちの無関心が生み出したものだと教皇様は言います。自分や自分の家族のこと、自分が暮らす国のことしか考えず、世界に目を向けようとしない態度が、難民を生んでいるというのです。
 一方で、神がいるなら、なぜ神が助けてくれないのかという人たちもいます。幼い難民の子どもが海でおぼれたり、キリスト教徒の少女たちが強姦され、殺害されたりするのを見て何もしない神とは、いったい何なのか。神がいるなら、いま起こっていることの全責任は神にあるのではないか、というのです。
 そもそも、なぜ神は、自分の子どもであるイエスが十字架上で殺されたとき、何もしなかったのでしょう。もし神が全能ならば、奇跡的な力でイエスを助けるべきではなかったのかということにもなります。エスが死んだことこそ、神がいない何よりの証拠ではないか。そう考える人もいます。
 ですが、わたしたちは神がおられることをはっきりと知っています。なぜなら、復活したキリストと出会ったからです。神はイエスを、わたしたちが期待するのとはまったく別の仕方で救われました。あらゆる苦しみを乗り越える力を与え、永遠の命、天国の栄光に迎え入れることによってイエスを救ったのです。復活したキリストと出会ったわたしたちは、神が確かにおられること。どれほど理不尽な苦しみにあったとしても、神は決してわたしたちをお見捨てにならないことを、はっきりと知っています。神は、人間の苦しみを取り除くこともありませんが、苦しみから目をそらして見殺しにすることもありません。人間の苦しみを直視し、その苦しみを共に担うことによって。あらゆる苦しみを乗り越える力を与えることによって。死によって終わらない、永遠の命へと導くことによってわたしたちを救ってくださるのです。
 中東やアフリカからヨーロッパに押し寄せる難民が置かれた悲惨な現状や、ISILの極悪非道なふるまいについてのニュースを聞くとき、わたしたちは絶望的な気持ちになります。何とか助けてあげたいですが、わたしたちにできることは本当に限られています。ですがそこで、「仕方がない」と諦め、目をそらしてはいけません。神が彼らを見捨てない以上、わたしたちも彼らを見捨ててはならないのです。どんなに遠くに離れていても、わたしたちは難民たちの苦しみを共に担うことができます。祈りの中で、イエスと共に彼らの苦しみの重荷を担うことができます。祈り続ける中で、自分たちにできることも見えてくるに違いありません。世界中で起こっている悲劇だけでなく、わたしたちの身近で起こっている悲劇にもしっかりと目を開き、その苦しみをイエスと共に担っていくことができるように祈りましょう。