バイブル・エッセイ(35) いつも喜んでいなさい


いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。
“霊”の火を消してはいけません。預言を軽んじてはいけません。すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい。あらゆる悪いものから遠ざかりなさい。
どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。あなたがたをお招きになった方は、真実で、必ずそのとおりにしてくださいます。(1テサロニケ5:16-24)

 いつも喜びにあふれて微笑みを絶やさず、神様に心を開いて祈り、どんなことでも神様からの贈り物として感謝しながら受け取ることができたら、どんなにすばらしいことでしょう。ですが、そんな風に生きられる人が本当にいるのでしょうか。
 そう考えているうちに1人の老夫人のことを思い出しました。わたし自身、あまり詳しくその方のことを知っているわけではありません。たまたまマザー・テレサのシスターたちと一緒に老人ホームを訪問していたときに出会い、そのあと何回かわたし個人としてお見舞いしたことがある方です。聞いたところでは、太平洋戦争で御主人と息子さんを亡くし、そのあと教会活動を熱心にしながら1人で生きてきた方だということでした。わたしがお会いした時は、もう体が不自由で外出もままならず、彼女を訪ねてくる人も月に数人くらいだったようです。
 彼女と初めて会ったとき、わたしはとても驚きました。何につけても、うれしそうに「ありがたいことです」とおっしゃるからです。「こんな自分に施設の皆さんも教会の皆さんもよくしてくださる。何も不自由はないし、うれしいことばかりです。本当にありがたい、ありがたい。」いつ会っても彼女はそんな風で、何事につけても感謝し、喜んでおられました。
 今思い出してみると、たぶんその喜びの秘密は彼女の謙虚さにあったのではないかと思います。自分はみんなからお見舞いされるのが当然だと思っている人だったら、たまに訪れる見舞客に感謝するのではなく、「どうしてもっと来てくれないのか」と苦情を言ったことでしょう。自分は世間で活躍する力があると思っている人だったら、老人ホームという環境に対して、「こんなところでは何もできない」と不平を言ったことでしょう。もし彼女の中に自分の力を頼むところがあったならば、とてもあんな風には生きられなかっただろうなと思います。
 自分の小ささを認め、神様にすべてをゆだねる人に、神様はいつでも喜びの霊を送ってくださる。彼女の喜びの秘密は、たぶんそれに尽きるでしょう。いつも喜んで生きることができるように、まず自分自身を小さくすることから始めたいと思います。
※写真…六甲教会入口のイルミネーション。