バイブル・エッセイ(843)ゆるすことは与えること

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ゆるすことは与えること

「わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカ6:27-38)
「赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる」とイエスは言います。ゆるすとは、相手をあるがままに受け入れ、愛するということ。与えるとは、自分を惜しみなく差し出し、愛するということ。わたしたちが誰かを愛すれば愛するほど、神様もわたしたちを愛して下さるというのが、イエスの伝えたかったことでしょう。
 ゆるせばゆるすほど、神様もわたしたちをゆるしてくださる。誰かを愛すれば愛するほど、神様もわたしたちを愛して下さるというのは、わたしたちもきっと、日々体験していることでしょう。誰かをゆるすとき、わたしたちの心は、安らぎと喜びで満たされます。逆に、誰かを厳しく裁いて切り捨てるとき、わたしたちの心は怒りや虚しさに覆われてしまいます。神様からの愛の流れが、ぴたりと止まってしまうのです。誰かを厳しく裁くなら、それは自分と神様の間に結ばれた愛の絆を、自分で断ち切るようなものなのです。
 神様を愛するということと、隣人を愛するということは、分かちがたく結びついています。隣人を拒むということは、その人の中に宿っている神様を拒むということであり、一方で神様を拒みながら、もう一方で神様とつながるということはできないのです。ダビデはそのことをよく知っていました。だからこそ、敵対するサウルの命を奪うことをせず、「主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」と言ったのでしょう。相手も神様の大切な子どもであり、その人が滅びることを神様は望んでいないということに気づくとき、わたしたちはその人を厳しく裁くことができなくなります。誰かを裁きたくなったら、それは神様が望んでおられることかどうかと、自分に問い直したらいいでしょう。
 多くを与えれば与えるほど、多く愛すれば愛するほど、わたしたちの心はさらに豊かな愛で満たされてゆきます。神様は、まるで気前の良いお店の主人のように、「押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れて」くださる方なのです。それは、わたしたちに与えた愛が、たくさんの人々を幸せにすると確信しているからでしょう。この人に与えれば間違いなくたくさんの人のもとに届くと確信したとき、神様はその人に惜しみなく恵みを注がれる。そんな気がします。その人は、神様の愛をこの世界に注ぐための水路のようなものなのです。
 誰かを裁いて切り捨てるというのは、この愛の流れをストップすること、頂いた恵みを相手と分かち合うのをやめるということなのです。惜しみなくゆるすこと、与えることによって、豊かな愛の流れを守り続けることができるように祈りましょう。