バイブル・エッセイ(780)神様の家


神様の家
「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」(ヨハネ14:1-4)
「わたしの父の家には住む所がたくさんある」とイエスは言います。神様の愛は、わたしたちの想像を越えて遥かに広く、どんな人でもその中に居場所を見つけることができる。神様の愛は、善人も罪人も、すべてを受け入れてもまだあまりあるほど大きいということでしょう。神様の愛は、「一度でも裏切ったら受け入れない」とか、「気に入らない奴はお断り」とか、そんな狭いものではないのです。この地上での「神様の家」、それは教会であり、わたしたち一人ひとりだと言っていいでしょう。わたしたちの教会には、わたしたちの心には、すべての人を受け入れるだけの広さ、ゆとりがあるでしょうか。
 ある大きな教会の近くで、長年、物乞いをしていたお年寄りが、先日、帰天されたという話を聞きました。その方がどこで暮らしていたかは知らないのですが、日中のほとんどの時間、橋のたもとのスペースにおられ、自分の前にお金を入れてもらうための缶を置いて座ったり、寝たりしておられました。真夏でも真冬でも休みなくです。わたしが知っている限り、20年くらいは、そんな生活を続けておられたのではないでしょうか。その間に、教会の信徒や神父たちがなんとかして彼に助けの手を差し伸べようとしましたが、結局、彼の生活が変わることはありませんでした。
 彼は、どんな気持ちで教会の近くに20年も通い続けたのでしょう。もしかすると、自分など教会に入るような人間ではない。だがせめて、教会のそばで、その愛のぬくもりにふれていたい。そんな気持ちだったのかもしれません。神様の愛は、教会の壁を越えて、彼のもとにも届いていたのだと思います。神様の愛が届く橋のたもとが、旅路の果に彼が見つけた自分の居場所だったのでしょう。いま彼は、天国で神様の家に迎え入れられ、天国のぬくもりの中でのんびり昼寝でもしているのではないでしょうか。
 教会のすぐ近くにまで来ていながら、なかなか教会の中に入りきれないという人は、きっとたくさんいるでしょう。教会からその人を遠ざけているのは、その人が自分で自分の心の中に作った壁かもしれませんし、わたしたちが作った壁かもしれません。かつてファリサイ人や律法学者たちは、さまざまな理由から律法どおりに生きられない人たちを見下し、罪人と決めつけました。神を愛するという人たちが、かえって神様から人々を遠ざける壁になってしまったのです。わたしたちの心の中に生まれる傲慢や優越感、人を見下す偉そうな態度は、神様から人を遠ざける壁になります。せっかく救いを求めてやって来た人が、その壁に阻まれて神様に近づくことができないなら、それはとても残念なことです。
 わたしたち一人ひとりが、教会を作り上げる「生きた石」であることを忘れないようにしたいと思います。教会が「生きた石」であるわたしたちによって築き上げられたものであるなら、その扉はわたしたちの心です。わたしたちが心の扉を閉ざすなら、誰も神様の家に入ることはできません。イエス様がわたしたちの心にも来て、心の扉を開き、すべての人のための居場所を準備して下さるように祈りましょう。