フォト・エッセイ(104) 中高生練成会③ 乙女峠


 練成会の3日目、乙女峠で「十字架の道行き」とミサをした。その日は3月29日、助祭叙階式からちょうど1周年の日だった。
 乙女峠には、殉教者たちを記念した聖堂が建てられており、その聖堂の近くから峰を1つ越えたところにある殉教者の慰霊碑まで約1キロにわたって「十字架の道行き」のための留が設けられている。うっそうと生い茂る木々に挟まれた、いつも薄暗くて細い道を歩く「道行き」だ。
 子どもたちと一緒にその道を歩きながら、わたしは自分が叙階によって担った十字架の重さのことを黙想していた。司祭になるということは、イエス・キリストの愛を地上に現わすための道具、「神の国」にあふれ出る愛の泉の水をこの地上に届けるための水路になるために、自分の全てを捨てるということだ。イエスが十字架上でしたのと同じように、神から与えられた使命を全うするため、自分の生涯のすべてを神に委ねるということだ。わたしは、この十字架をきちんと担っているだろうか。最後まで担いきることができるのだろうか。そんなことを自分に問いかけながら歩いていた。
 今から2000年前、イエスは愛するユダヤの人々や弟子たちから見捨てられ、裏切られながら、彼らへの愛の証である十字架を担って歩き続けた。今もイエスは愛するわたしたちから見捨てられ、裏切られ続けながら、わたしたちへの愛の証である十字架を担って歩き続けている。わたしたちが自分の十字架を担って歩く一歩先を、イエスは歩き続けているのだ。その十字架を見失いさえしなければ、わたしもこの「道行き」を歩み続けることができるかもしれない。子どもたちが唱える「十字架の道行き」の祈りを聞きながら、わたしの心にふとそんな思いが湧き上がってきた。
 子どもたちもこれからそれぞれの十字架を背負って人生の「道行き」を歩いていくことになる。津和野で十字架を担って歩くイエスと共に歩いた思い出が、その長い道のりを支える糧になってくれればいいのだが。







※写真の解説…1枚目、太鼓谷稲荷から見た津和野の街。2枚目、乙女峠で十字架の道行きをする中高生たち。3枚目、乙女峠に登る途中で見つけた一本桜。4枚目、乙女峠の登り口にある永明寺の枝垂桜。