バイブル・エッセイ(73) 聖霊の輝き


  今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。
 しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の誤りを明らかにする。罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。(ヨハネ16:5-11)

 なぜ弁護者、聖霊がこの世に遣わされるためにイエスは去っていかなければならなかったのでしょう。それは、もしイエスの十字架上での死がなければ、わたしたちが真実の神の愛に触れることができなかったからだと思います。
 友であるわたしたちのために、イエスは十字架上で自分の命を捨てました。神の愛が地上に余すところなく完全に示されるため、イエスは自分の命さえもわたしたちのために捧げてくださったのです。自分を神に捧げつくし、完全に空っぽになって息絶えたイエスの姿を通して、完全な神の愛がこの地上に輝き出ました。この愛の輝きこそが聖霊なのだとわたしは思います。
 この輝きに照らされるとき、わたしたちはイエスと父なる神の間に結ばれた愛の交わりの中に招かれ、吸い込まれていきます。この輝きは「神の国」の輝きであり、わたしたちを父なる神のもとへと導く輝きなのです。イエスの十字架が発するこの輝きに包まれて、わたしたちは「神の国」へといざなわれていくのです。
 ありがたいことに、わたしたちはイエスの十字架を見上げるたびに、心に思い起こすたびに、この輝きに触れることができます。イエスが去って行かれたのは、まさにそのためだったのです。わたしたちの行く手を聖霊の輝きで照らし、十字架を通して「神の国」へと導くためだったのです。この輝きに照らされて、まっすぐ十字架に向かって進んでいきましょう。その先に輝きの源、すべての愛の源泉である「神の国」が待っています。
※写真の解説…メタセコイア。六甲山高山植物園にて。