バイブル・エッセイ(757)栄光の輝き


栄光の輝き
 そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である。人々は皆、登録するためにおのおの自分の町へ旅立った。ヨセフもダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤベツレヘムというダビデの町へ上って行った。身ごもっていた、いいなずけのマリアと一緒に登録するためである。ところが、彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた。宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである。その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:1-14)
 「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」と神を賛美する天使たちの声が、天に響き渡ります。それは、イエス・キリストの誕生によって、神の栄光が輝くときがついにやって来た。イエス・キリストの誕生によって、人々の心に平和がもたらされるときがついにやって来たという喜びの歌声です。
 「神の栄光が輝く」とはどういうことでしょう。それはつまり、「神さまってすごい。神さまありがとう」とみんなが思うということです。では、どんなときにわたしたちは「神さまってすごい」と思うでしょう。分かりやすいのは、自然の美しさに感動したときでしょう。アルプスのような壮大な景色や、庭に咲く美しい花を見たとき、わたしたちは思わず「神さまは、なんてすごいものを作るんだ」と感じます。ですが、それだけではありません。神さまのすごさは、わたしたち人間を通しても現れるのです。
 イエス・キリストが、全人類を救うために十字架上で命を捧げたとき、神の栄光が燦然とこの世界に輝きました。人間が、自分のことも忘れて苦しんでいる人に手を差し伸べるときにも、神の栄光がこの世界に輝きます。人間のそんな姿を見るとき、わたしたちは「この人はすごいな」と思うだけでなく、「人間にこれほどの愛をお与えになった神さまは、なんてすごいんだろう」と思うのです。たとえば、今年列聖されたマザー・テレサ。自分のことを忘れてインドの貧しい人たちのために働き続けたマザーの姿は、この世界に神の栄光を輝かせました。そんな大きなことでなくてもかまいません。道で転んだお年寄りに思わず駆け寄り、「大丈夫ですか」と助けの手を差し伸べるとか、被災地の皆さんに、真心を込めて準備したプレゼントを手渡すとか、そんな小さなことの中にも神の栄光が現れます。
 イエス・キリストが、十字架上の苦しみに耐え抜いて愛を貫いたとき、神の栄光は地上に燦然と輝きました。わたしたちが、大きな苦しみの中でも希望を捨てず、愛する人たちのために前向き生きてゆこうとするときにも、神の栄光が輝きます。たとえば、癌になっても希望を捨てず、家族や世の中のために少しでも役に立とうと頑張っているお母さんの姿の中に、確かに神さまの栄光が現れています。そんなお母さんの姿を見るとき、わたしたちは「この人はすごいな」と思うだけでなく、「人間ってなんてすばらしいんだろう。人間にこれほどの愛を与えてくださって、神さまありがとう」とい気持ちになるのです。それほどのことでなくても、わたしたちが苦しみの中にあっても希望を捨てず、前向きに明るく生きてゆくことで神の栄光が輝かせることができます。たとえば、「〇〇さんは、お母さんの介護で大変なはずなのに、いつも明るい笑顔を忘れない。なんてすごいんだろう」、そのようなことを通して、神さまの愛がこの世界に燦然と輝くのです。
 イエス・キリストは、十字架上で神さまの愛を最大限に輝かせました。わたしたちも、イエスにならって小さな光を輝かせてゆきたいと思います。一つ一つは小さくても、たくさんの光が集まれば、この世界は神の栄光にまばゆく輝く世界になるでしょう。神の栄光が輝くとき、つまりわたしたちの心に愛の光が輝くとき、この世界に平和が実現します。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」という天使の賛美に心を合わせて祈りましょう。