バイブル・エッセイ(781)聖霊の輝き


聖霊の輝き
「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」(ヨハネ14:15-21)
 聖霊がやって来る「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」とイエスは言います。真理の霊が下るとき、わたしたちの心の目が開かれ、世界の本当の姿が明らかになる。イエスと父なる神は一体であり、わたしたちはイエスの愛の中に生きていること。イエスの愛がわたしたちの心の中に生きていることを、悟るだろうというのです。
 聖霊が下り、この世界の本当の姿が明らかにされる。わたし自身にも、そんな体験があります。今から20年近く前、イエズス会の修練者として霊操と呼ばれる1ヶ月間の祈りのプログラムを体験したときのことです。「あらゆる乱れた執着に打ち勝ち、自分の心を整えるための霊操」と言われる通り、霊操の中でわたしたちは自分の心を聖霊の光で隅々まで照らし、余分なものを取り除いてゆきます。心を、神様に向けてまっすぐに、清らかに整えてゆくのです。そのプログラムの最後に、「愛を得るための観想」というものがあります。聖書の言葉からしばらく離れ、この世界に降り注ぐ神様の愛、聖霊の恵みを全身全霊で感じ取る祈りです。世界のどこにいても、神様の愛を感じながら生きてゆくための祈りと言ってもいいでしょう。長束の畳の聖堂で座禅を組みながら、わたしは確かに、神様の愛がすべての被造物に降り注いでいるのを感じたように思いました。
 不思議なことが起こったのは、その祈りを終え、サンダルを履いて庭に出たときです。ふと庭石に目をやると、なんとその庭石が白く輝いて見えたのです。庭石だけではありません。庭の木々も、池の鯉も、雑草さえも、輝いて見えたのです。そのときわたしは、世界の本当の姿を見たように思いました。この世界は、神様の恵みで満たされた世界、神様の愛で光り輝く世界なのです。わたしたちは、ふだん気づかないだけで、神様の愛の輝きの中に生きているのです。もし心の目が開かれたなら、わたしたちは道端に咲く小さな花の一つの中にさえ、全世界を包み込む神様の愛を感じ、感動の涙をこぼさずにいられなくなるでしょう。わたしたちは、イエスの内に、父なる神の愛のうちに生きているのです。
 その同じ輝きが、わたしたち一人ひとりの心の中にも宿っています。神様にすべてを委ね、神様から与えられた使命を精一杯に果たそうとしている人は、顔から、また全身から清らかな光を放っています。この教会にも、そのような方がたくさんいらっしゃるように思います。人生のさまざまな体験を経て、私利私欲や恐れ、不安、怒り、憎しみなどの闇から解放されるとき、わたしたちの内なるイエスが、その輝きを放ち始めるのです。「わたしたちはイエスの内にあり、イエスはわたしたちの内におられる」ということは、理屈ではおかしなことですが、わたしたちの体験としては、明らかな真理です。この真理にいつも気づいていられるように、聖霊の恵みを願いましょう。