カルカッタ報告(22)8月26日マザーの誕生日

8月26日(水) マザーの誕生日

 朝5時ころ起きてマザー・ハウスに行った。幸い昨日の晩は涼しくて寝やすかったので、すっきりと目覚めることができた。
 マザー・ハウスに着き2階の聖堂に行くと、もうすでにたくさんのボランティアたちが聖堂で祈っていた。取材のテレビカメラも数台入っていて、何かものものしい雰囲気を醸し出していた。しばらく聖堂の中で祈ってから、わたしは早めに香部屋に行って祭服に着替えることにした。共同司式とはいえ、マザー・ハウスの主聖堂での初めてのミサだ。少し緊張する。
 祭服に着替えてしばらく待っていると、まずヨーロッパ人の若い司祭がやってきた。昨日の聖体賛美式で祝福をしてくれた司祭だ。互いに軽く挨拶を交わした。彼の名はデュアルテ神父。ポルトガルリスボンから来たそうだ。彼のすぐあとに、今度は恰幅のいい年老いたインド人の司祭がやってきた。見間違いようもない、今日のミサの主司式を務める前カルカッタ大司教、ヘンリー・デ・スーザ師だ。どうやら今日のミサは、この3人で立てるらしい。マザーの誕生日だからもっと大きな司祭団になるのかと思ったが、意外に少なくて驚いた。ミサ前の打ち合わせで、わたしは福音書の朗読を担当することになった。
 定刻通り6時に、3人の侍者と一緒に6人で聖堂に入った。わたしはヘンリー師の右隣に立って共同司式した。これは、わたしにとってまったく信じられないような出来事だった。まさかマザー・ハウスの主聖堂での最初のミサを、ヘンリー師の隣で捧げることになろうとは。
 15年前、ヘンリー師は現役のカルカッタ大司教だった。彼との最初に出会ったのは、わたしがマザーに堅信の代母を頼んだときのことだ。当時わたしが所属していた浦和教区の岡田司教に書いてもらった推薦状をマザーに見せて、堅信をマザー・ハウスで受けたい、ついては代母になってくれませんかと頼むと、マザーは困惑したような様子で「まずカルカッタ大司教に許可をもらわなければいけません」と言った。
 もしかすると、マザーは高いハードルを示すことでわたしの願いを婉曲に断ったのかもしれない。だが、当時のわたしは何も恐れない無謀な若者だったので、マザー・ハウスを出るとすぐにその足でパーク・ストリートにある大司教館に向かった。秘書の神父さんに事情を話すと、大司教は留守だから明日また来なさいと言われたのでその日はおとなしく引き下がることにした。
 翌日また出かけていくと、今度は大司教にとりついでもらうことができた。親切な秘書の神父さんが、わたしが岡田司教からもらってき推薦状を持って2階の大司教の部屋に上がって行った。しばらくして神父さんが降りてきて「じゃあこれ」と言って推薦状をわたしに返してくれた。確かに下の方に何か書いてあるのだが、残念ながら達筆すぎて読めなかった。しかたがないのでマザー・ハウスに行ってSr.クリスティーにその文字を見せると、なんと「わたしはここに堅信を許可します」と書いてあるとのことだった。ヘンリー大司教は、見ず知らずのわたしにあっさりと堅信の許可をくれたのだった。
 その書面をマザーに見せると、マザーはもはや仕方がないといった感じで代母になることを引き受けてくれた。こうしてわたしはマザーを代母としてマザー・ハウスのこの聖堂で堅信を受けることになった。1994年12月のことだった。その後、ヘンリー大司教とは何回か直接会って話す機会があった。マザー・ハウスに彼が来たとき、聖書にサインをしてもらったこともあるし、一緒に撮ってもらった写真もある。
 最後に彼の姿を見たのは、マザーの葬儀ミサの様子を映した映画の中でのことだ。彼は、数100人の司教や司祭が共同司式したその荘厳なミサで説教を担当していた。マザーがカルカッタに与えられたことへの感謝にあふれた、堂々とした説教だった。
 あのヘンリー師の隣で、わたしは今ミサを立てている。それだけでわたしは鳥肌が立つほどの感動を覚えた。神様のなさることは本当に不思議だ。
※写真の解説…マザー・ハウス1階にある、マザーの墓。