バイブル・エッセイ(101)違いを越えて


  そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。(ルカ6:12-19)
 改めて12使徒の顔ぶれを見ていると、その多様さに驚かされます。反ローマの活動家だったシモン、ローマの手先と見なされた徴税人のマタイ、ガリラヤの善良な漁師さんであるペトロやアンデレ、彼らが一体どうやって一緒に生活できたのか不思議なくらいです。イエスの死後さらに、律法の専門家だったパウロまで使徒に加わりました。
 これだけ背景が違う人たちが一緒に行動すれば、対立や争いが起きるのはある意味で当然です。ある人にとってはいいことが、他の人にとっては受け入れがたいというようなことが頻繁に起こったことでしょう。しかし、使徒たちを中心とした教会はイエスの死後もばらばらになってしまうことがありませんでした。なぜでしょうか。
 それは、彼らが自分の思いによって生きていなかったからだと思います。もし自分の思いだけに従うならば、意見や性格が合わない人と一緒にやっていくのは難しいでしょう。しかし、彼らは自分の思いではなく神の御旨に従う謙虚さを持っていました。誰かがしていることが自分の思いに反していたとしても、もしかするとその人を通して神の御旨が行われているのかもしれないと思える謙虚さがあれば、どんなに合わない人とでもなんとかやっていくことができるのです。
 わたしたちの教会にも、さまざまな背景をもった多様な人たちが集まっています。もし自分の思いを神の御旨に優先して人を裁くならば、教会はたちまち分裂してしまうでしょう。ですが、多様さを通して語りかけられる神に謙虚な心で耳を傾ける姿勢を一人ひとりが持つならば、わたしたちは違いを越えて一つになることができるはずです。ただ神の御旨だけを求める謙虚さのうちに、共に歩んでいきたいものです。
※写真の解説…藤の木古墳にて。