バイブル・エッセイ(923)教会を建てる

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教会を建てる

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。(マタイ16:13-20)

「あなたはメシア、生ける神の子です」というペトロに、イエスは「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる」と語りかけました。ペトロの堅固な信仰の上に、教会を建てるということでしょう。この言葉は、イエスが建てようとした教会がどんなものであるかを教えてくれます。イエスが建てようとした教会、建てたかった教会は、建物としての教会や、組織としての教会ではなく、信仰を土台とした教会。メシアであるイエスと出会って救われた人々のあいだに結ばれる、愛の交わりとしての教会だったのです。

 コロナ禍の中で、ある雑誌に一つのジョークが紹介されました。悪魔がイエスに向かって、「新型コロナウイルスによって、お前のすべての教会を閉めてやった」と言うと、イエスが「お陰で、すべての家庭に教会が開かれた」と答えたというのです。このジョークは、教会の本質をよく突いていると思います。教会とは、十字架のついた建物や、厳格な規則に統制された組織のことではなく、信仰を土台として人と人とのあいだに結ばれる愛の交わりのことなのです。何十人、何百人が一ヵ所に集まることが出来なくても、家族の数人が一つの信仰によって結ばれ、互いに愛しあうなら、そこに教会があるのです。これまで家族で集まって祈ることはあまりなかったという家庭でも、コロナ禍で教会に行けなくなって以来、夫婦や家族で集まって祈ることが多くなったという話を信者さんから聞くことがあります。「お陰で、すべての家庭に教会が開かれた」というのは、単なるジョークではなく、今回のコロナ禍によって確かに実現したことなのです。

 では、教会の土台となる堅固な信仰とは何でしょうか。「あなたはわたしを何者だというのか」というイエスの問いに対するペトロの答えに、信仰とは何かが要約されていると思います。「あなたはメシア」ということは、つまり、「わたしはあなたと出会って人生の迷いや苦しみから解放されました。神の愛に触れて人生の真の目的と意味を知り、新しい人間として生まれ変わりました。喜びと力の源であるあなたに、どこまでもついてゆきます」ということです。「あなたはメシア」というペトロの答えには、メシアと出会い救われた者のすべての感慨が要約されているのです。イエスは、短い言葉に込められたペトロのその思いを、しっかりと受け止めました。だからこそ、「あなたはペトロ」、堅固な信仰の岩と言ったのです。

 イエスと出会って救われた人たちは、神のすばらしさを共に讃え、神から豊かに注がれる恵みを分かち合って、固い愛の絆で結ばれてゆきます。それこそが教会なのです。イエスと出会った人たちのあいだに生まれる喜びの交わり、それこそが教会なのです。一人ひとりがイエスと出会った最初の喜びを思い出し、互いに深い愛の絆で結ばれるなら、そのときそこに教会が生まれます。十字架のついた建物に集まれなくても、わたしたちの家庭一つひとつが教会になるのです。

 たくさんで集まれないあいだに、一人ひとりの信仰の土台が一層堅固なものになっていれば、集まれるようになったときには、きっと何かすごいことが起こるに違いありません。コロナ禍の中で、すべての家庭が教会となるよう、心を合わせて祈りましょう。

 

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