余談(9)『美しい人に』再読

美しい人に 新装版―愛はほほえみから

美しい人に 新装版―愛はほほえみから

 クリスマスが終わって少し時間ができたので、買ったまま机の上に積んでおいた本を読み始めた。まず読み終えたのが渡辺和子さんの『美しい人に』だ。
 最近、渡辺さんとお話しする機会があり、とても人間的な魅力のある方だと思ったのが渡辺さんの本を読み直すきっかけだった。この本はずいぶん昔のベスト・セラーで、わたし自身も学生時代に読んだ覚えがあるのだが、そのときの本はもうどこかにやってしまった。本屋で調べると新装版が出ているというので、この機会に買いなおすことにした。 
 最初の数ページで完全に引き込まれてしまい、一気に半分まで読んでしまった。なにより言葉遣いが美しく、一つひとつのフレーズが無駄なく物事の核心を突いている。例えば「愛されるためにいちばん手近な道は、愛すべき人になること、つまり愛情豊かな人に自らがなることだと思うのです」という言葉。まさにその通りだと思う。わたしたちの中から愛があふれ出ていれば、自然に周りの人たちもわたしたちを愛してくれるだろう。愛に対しては、愛を返すのが人間の一番自然な反応だからだ。もちろん中には返してくれない人もいるし、ひどい時には悪意で報いてくるような人もいるが、そのような人はどこかで傷ついた人である可能性が高いから、わたしたちはむしろ積極的にその人を愛すべきだろう。なにより大切なのは、わたしたちの中から無条件に愛の力が溢れだしていることだ。その愛の源泉が、わたしたちにとってイエス・キリストであることは言うまでもない。
 「事実があるにもかかわらず、かたくなに虚構の自己概念を変えようとしない時、そこに生じるものは防衛機制である。それはありのままの自分の姿を恥じて、それを認めようとしないところから生まれ、自分以外のものを非難し、いいわけをつくることによって、自分の姿を見つめることを拒否するものである」という言葉にも考えさせられた。ついつい生活の中で「虚構の自己概念」にしがみついてしまうことが多いからだ。「霊的な深みを持った司祭」、「人格的に優れた司祭」というような自分で作り上げた虚構の自分と食い違う自分の姿を誰かから指摘されると、相手のほうが悪いんだ、自分は少しも悪くないと開きおなってしまうことがよくある。自分のありのままの姿を認め、神に救いを求める謙虚さを持ちたいものだと思う。
 修道生活について語ったエッセイの中で、渡辺さんは次のように言っている。「開かれた時に見られる自分の姿を、キリストのそれに近づける努力もせずに、ただあらけずりの自分を、そのままさらけだすことをもって誠実であると考えることは誤りであり、怠け者のすることではあっても、天父の完全さに近づくことを義務付けられた者にゆるされることではない。」修道者としてとても考えさせられる言葉だ。おそらく渡辺さんはこのような気持で50年以上のあいだ修道者として自分を磨き続けて来られたのだろう。その結果が、今の渡辺さんが持っている言葉遣いや仕草の美しさ、人格的な気品を作り上げたに違いないと思う。
 一番奥深いところでの美しさ、神の前での美しさを磨くとき、その美しさが自然に外にも表れ、その人の生き方や対人関係を変えていく。『美しい人に』と題されたこの本は、そのことをわたしたちに教えてくれているようだ。昔読んだことがあるという方にも、ぜひ再読をお勧めしたい。
☆渡辺和子さんの講話がYouTubeで聞けます。